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新宿御苑を散歩しつつ思ったこと

   すがすがし新宿御苑わが行くは春の好き木の立ち並ぶ路 窪田空穂『老槻の下』   ヒマラヤスギ泰山木の葉の照りや御苑に老いて世の常ならず  歌集批評会は以前は中野サンプラザが主だったが、営業が終了してからというもの、バリエーションに富んでいる。令和六年四月十四日の光野律子歌集『ミントコンディション』批評会の会場は新宿御苑前で、まさに新宿御苑が一望できて気持ちいい会場だった。会場としては珍しく横長のレイアウトだったが却って圧迫感がなくリラックスできたように思える。  内容についてはかりん誌の報告記に譲るとして、この気持ちよさが空穂の歌にもあったなと引用歌が思い出される。一首目は御苑の中とも読め、周辺の路とも読める。御苑は桜をはじめ数多くの草木が生えており、空穂は全体の雰囲気として春の好き木が並んでいると詠った。  筆者が新宿御苑のほうに行ったときは中には入らずに、東京メトロの新宿御苑前駅から新宿御苑のほうへ歩き、周辺を散策した。葉桜というには葉が多く、散ったというにはまだ桜の花が若干残っている。そんな咲き具合であった。並木道になっており、オープンテラス席のあるイタリア料理店や軽食料理店などが立ち並ぶ。もう初夏であるというようにキャップを被ってサングラスを掛けている人もみられる。皆、気持ち良さそうに休日の天気のよい昼間を楽しんでいた。どの店も列になっている。席に座り食事とワイン、ビールを楽しむ人と、列の後方にいる人の温度差が大きい。席を持つ人と持たざる人が発生するのが都会だと知らしめられる。  二首目は新宿御苑内の歌である。歌集タイトルである老槻にもいえることだが、老いた樹木に自らの老いを重ねる歌が多い。ヒマラヤスギは巨大に成長し、また太古からあるような存在感がある。泰山木はヒマラヤスギに比べそこまで大きくは成長しないし、モクレン科らしく白い花が咲く。木々は御苑という聖域で伐られることは滅多にない。太平洋戦争でも焼失することがなく、空穂以上に長い生を送っているにも関わらず、葉にツヤのある木々が老いていくということは世に常にあることではないと感嘆している。  新宿御苑付近を散策するなかで、一首目で空穂が詠ったすがすがしさを味わえたような気がする。細かな描写は避け、春の好き木と気分を表すところが空穂の魅力だと思う。そのすがすがしさで次の週末まで労働に堪えられる、気がする。

浅井美也子歌集『つばさの折り目』を読む

 結婚をすると女性に専業主婦、母、妻などの社会的役割が生じる。それはジェンダーや家族システム、夫婦と論点が若干異なりつつ付与される役割である。   野薊のみだれる箱庭ひたぶるにきみもわたしもただの親鳥   鬱金香かなしきほどにひらきおり雄しべ雌しべも剝きだしにして  冒頭の連作から引用した。一首目はきみとわたしが親鳥に例えられている。野薊のみだれる風景は美しく、風や自然の感じが出ているが、箱庭の箱という語に閉塞感を感じる。このアンビバレントと、ただの親鳥という突き放した言い方で家族に対して陰りやドライになりたい心境が読みとれる。二首目は、チューリップの生殖器官である雄しべ雌しべが明け透けになっている様をかなしきと受け止める。二首とも家族の在り方を題材にしており、取り分け“子どもをうみ、育てる”という要素がある。現代ではステップファミリーやDINKSの家族も珍しくなくなってきたが、社会学者のタルコット・パーソンズの有名な家族機能の論ではいくつかあるなかで「①夫婦の愛情を育て、性的な欲求をみたす、②子どもをうみ、育てる」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より「タルコット・パーソンズ」の記事における「家族の機能」の解説)が位置づけられている。歌集中に専業主婦は「絶滅危惧種」と自嘲気味に詠われているが、決してそうではなく、拡張していく家族概念のなかで、鑑みることの少ないように思った。   後ろからなら抱きしめることできる男とねむる百年の孤独ほどを   われからも子からも頼られきみの身のデクレッシェンドになりゆく週末   一日中そばにいるのも嫌な日は遠くに干せり夫の下着を   同じもの食むうち同じ考えをもちはじめたり夫という男  夫の歌は翻すと主体が妻である歌である。上句のニュアンスが案外難しいが、正面から抱き締めるのではなく、そっと背後からなら抱き締められるという、気恥ずかしさと読むのがよさそうだ。百年の孤独はガブリエル・ガルシア・マルケスの小説をもじっているのだろう。小説のほうは架空の一族が村を成し、近親相姦で奇形児が産まれ、タブー視するというものであるが、そこまで加味すると読むとやや歌が物々しくなる。二首目は頼られる夫の様子を戯画的に描く。この歌などから読者は文学的な雰囲気が漂いつつ、微笑ましさのなかに屈託のある一家を描く。三首目、しばらく読み進め

柿生の風景

   馬場・岩田両先生の歌の風景で柿生は欠かせない。私は毎回といっていいほど、訪れるときは花束を持っている。駅から「柿生坂」に向かうときに、麻生川を渡る。岩田先生の歌に出てくる鴨には毎回会えない。数十分待ったり、川沿いを少し歩いてみたりして探してもいいのだが、みんな楽しそうに歩みを進めていく。ふと、自分はかつて、集団から置いていかれる子だったことを思い出す。置いていかれるくらいのほうが楽しく生きられたのかもしれない。柿生坂は結構急である。小高く丘陵になっており、木々も鬱蒼としているので、まだ野生動物が多く生息していそうだ。以前はコノハズクも生息していたという。今は猪のような獣害のほうが時事的で、「猪は絶対いるよね」とみんなと話す。もし出てきたら歌にしたい。  下りの柿生坂はいつも真っ暗である。お腹も膨れ、軽くお酒に酔い、いい気分だ。みんな影だけになってしまうが、声は楽しそう。「おぱんちゅうさぎ」、「猫ミーム」、いわゆる若者文化に私も疎くなってしまった。有馬記念やM―1は馴染みがなかったが、意外にも楽しめた。当然ながら夜の麻生川には鴨はいない。今回も会えずじまい。車の音、電車の音が遠くで聞こえる。この時間が永遠に続けばいいのに。

楠誓英歌集『薄明宮』を読む

 欠落には存在、存在には欠落。死には生、生には死。それぞれの概念が補われる歌があるという漠とした歌集の印象は、栞文にある「エッチング絵画」(川野里子)、「うっすらと、けれど確実に存在している死の影(略)生暖かい気配」(榎田尤利)にもいえるように思う。   空色のあをかすれゆく長椅子はバス停跡に残されたまま   桟橋にタイヤは半ば沈みをり小さき魚《うを》を遊ばせつつも  長椅子は爽やかな青空と同化するように存在していたはずで、空とともに色がかすれて、くすんでいく。バス停跡というから、長椅子はバス停とともに廃棄されている。かつては同化していた空も、いまは長椅子もバス停も死の気配を湛える。それもおぞましいものではなく静かな死の気配である。次の歌のタイヤも棄てられている。しかし、タイヤの内側に溜まった水に魚がおり、タイヤとしての役割を終えつつも、生の気配がある。どちらの歌も一つの景色に生や死が内包される。生と死は存在するものにはついてまわる当然を浮かび上がらせる歌である。   休校のつづく教室 仰向けのまま冷えてゆく椅子の墓原  そうした歌は時事的な歌であっても詩情を醸し出し、時事的な題材から発せられる俗臭を取り除く。連作単位でみるとコロナ禍の景色であることがわかる。学習机の上に椅子が逆さまに乗せられ、数日が過ぎている風景だが、椅子の墓というところに、子どもの無邪気さと対照的なひんやりした気配が感じられる。   胸骨が折れてもひたに圧しつづけよいつしか爪は蹄となりて  時事ではないが、心臓マッサージの講習のような、急迫しせわしない場面でもその場の雰囲気とは反面で、静かでひんやりした世界をみている主体がいる。講習の場所も仮に学校であるとすると、心臓マッサージに内在する死のイメージ、蹄から連想される牧羊神のイメージと、少年の対照性で読み味が広がる。〈ひたに〉という副詞や〈圧しつづけよ〉という文語、そして両手を合わせる形を蹄を例えるところに、牧羊神のような神話的イメージが加わる。   鶏姦とふ哀しきひびき知りてよりかくまで淡き少年の膝窩《しつくわ》   うつ伏したきみの頭蓋か卓上にひそとおかれて在る晩白柚  主体のものではなく、特定の人物のものではない少年の身体の一部に焦点が当てられる。骨相学に用いられる頭蓋骨の見本に退廃美を感じるように、身体の一部に焦点を合わせると、ある美しさ

ベッドタウンについて考えたこと

  都心に行くと感じるのは若者が多いということ。陳腐な感想だがコロナ禍下は極力移動を控えていたし、出不精に拍車がかかり、五類になってからも遅くまで都心に滞在したり、居酒屋などの喧騒を避けたりしていた。最近しばしば都心に終電間近まで滞在するようになったし、赴く駅のバリエーションも増えてきた。会合には数時間早めに最寄り駅に付き付近を探索する。大名屋敷の跡地や文豪の旧居跡が意外に多く見つかる。大抵は看板だけなので、解説を読んでから記録に写真を撮る。後はすることがないので、チェーン店のカフェかファミリーレストランを探す。休日のオフィス街ほど閑散としているところはないのでゆっくりと本を読み飲食ができる。否応なく周りの客の話していることも耳に入ってくるもので、子どもや孫の進学のことや、自営の会社のこと話題が多い。地元では介護や病気の話題が一番多い。また医療や介護に携わる人が多いので、現役世代であっても介護や病気の話題が多くなる。いざ身をもって実感すると鮮やかに対比されるものだと思った。同時にベッドタウンと呼ばれる郊外はベッドたり得ているのだろうか。かつては都心で働くサラリーマンのベッドであったが、いまや高齢者のベッドなのではないかと思った。  日付を跨いで地元駅に帰ると、出口毎に人の流れは減っていき、最終的には二、三人ほどになる。それぞれ深夜の倦怠感を身に宿し、しかし足早に歩みを進める。灯りは街灯と住宅の外灯しかなく、車もほぼない。歩道橋に昇ると辺り一帯が夜の静けさに包まれている。町全体が寝息を立てているようでもある。都心は終電間近でも客引きがカラオケや居酒屋を勧め、数人のグループが店へ消えていく。多少店の看板も暗くなるが、街全体が明るい。地元に帰ると夢のようにも思えるほどのギャップがある。ベッドタウンとはいい得て妙な言葉。その名のとおり静かで良く眠ることができる。

吉村実紀恵歌集『バベル』を読む

  現実は理想のメタファ朝な朝な熱きシャワーをうなじに当てる  現実は理想の暗喩というが、素朴な感覚においては現実が先行して理想があるように思う。しかし、実際にはその現実というものは人々にとって認識されているとも限らない。むしろ、引用歌のように理想があり、現実を理想に近づけるよう苦心している。熱きシャワーは理想から現実へのスイッチなのかもしれない。プラトンもイデア論でイデアが現実に先立つと考えていたし、江戸川乱歩も夜の夢こそ真実といっていた。歌はそれでも現実にメタファとして理想があるという。本歌集を表現する一首のように思えた。   「リストラは神の配剤」その舌でグラスのふちの塩を舐めつつ   ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは  理想といっても、理想郷とは違う。むしろさまざまな意味での神話に近い。例えば成長を信じることができた昭和という時代もその一つである。リストラはバブル崩壊後に社会問題化した事象である。リストラクチャリングの略で、経営縮小を理由に解雇されるという印象が強いが、もともとは経営の再構築という意味合いである。経営においては手段の一つで、会社を擬人化するなら(法人とそもそもいうが)、病気の会社に処方される薬の一つなのである。実際は多数から一定数の解雇が生じ、その辛さが下句の塩に繋がる。塩はソリティドックの塩と読んでいいだろう。または塩の一粒一粒がサラリーマンなのかもしれない。そうすると主体はノスタルジーに浸りつつ、どこか時の神のような心持ちになっているのかもしれない。二首目は言い回しとしてのものづくり神話があるが、脱成長の雰囲気が蔓延る昨今、ものづくり神話はまぎれもなく比喩ではない神話なのである。一兵卒というのも企業の社員としての言い回しであるが、「神話」においては重装歩兵のような出で立ちをした一人のようである。企業戦士、二十四時間戦うなど、当時の経済活動は今思うと『イーリアス』のような叙事詩の世界だったのかもしれない。   パンプスは三センチでもトレンチの後ろの衿はもう立てずとも  さて、叙事詩の世界での主体は高いヒールを履き、トレンチの衿を立てていたらしい。これは武具だったのだろう。いまはその神話も終わり、みられない。一つの物語が終わったのである。〈もう立てずとも〉よいというところに寂寥とともに安堵があり、良くも悪くもある時代を

知覚が捻れる空穂

 卓上の書《ふみ》を照らせる深夜《しんや》の燈《ひ》澄み入るひかり音立てつべし 窪田空穂『丘陵地』  感覚器(受容器)は皮膚や目、さらにいうとそれぞれの神経のことで、適刺激はその感覚器に適した刺激のことである。平たくいうと目には光が、耳には音が適した刺激なので、適刺激ということになる。なお、皮膚には神経が複数あるので、皮膚としてみたときは適刺激も複数あるし、瞼を閉じて眼球を押すと光を感じるという現象がある(試さないほうがいいです)ので目も厳密にいうと適刺激は複数ある。また赤外線といった可視光線ではない光や、超音波のような聞き取れない音域もある。適刺激という概念はそれぞれの生体の知覚能力にも依存する。  なぜ知覚の話をしたかというと、引用歌の下句は「ひかり」、「音立てつべし」と刺激は捻れているからである。深夜の燈の光は視覚で、音が立てていることを知覚するのは聴覚なので知覚的にあり得ない下句なのである。感覚器と適刺激をずらして詩的に工夫しているというのは歌評でありがちだが、知覚心理学の常識を踏まえると、人間の生理的限界を超えた大きな飛躍ということになる。さて、歌全体を見ていきたい。卓上にあるのは書物、深夜の燈が届く範囲の世界が詠われている。俗臭や自らの老いた肉体からも解放されているような静謐な空間があり、その空間を澄み入るひかりと表現している。その静謐さや静寂さがあるのに、音がたっているようだと詠う。ひかりが立てる音は想像するしかないが、深夜の燈から発せられるひかりなので大きな音ではないだろう。空穂の時代は電球なので音も出ないが、あるとすれば漏電のようなジーとした音で、いずれにせよしみじみとした音だろう。全くの無音だと却って雑念が生じたり、自分の心音が気になったりするので、何かしら音があったほうが、俗臭や自らの老いた肉体を忘却するのに都合がいい。  社会的、肉体的軛から解き放たれるところまで読みが行き着いたところで、先述の感覚器と適刺激の捻れの話と繋がる。肉体的な軛がなければ捻れは捻れではなくなるのである。引用歌の場合は光刺激の感覚器は耳であり、歌の世界においては適切なのである。なぜなら生体に囚われた知覚的な原理原則から解離することで、歌意のごとき抒情が担保できるからである。詩的飛躍で片付けずに細かく読むと知覚心理学的、あるいは生理学的に処理できるから面白い。