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9月, 2018の投稿を表示しています

ネクタイとTシャツと 辻聡之歌集『あしたの孵化《ふか》を読む』

 ツイッターでちらちらと進行が垣間見えたり、歌集タイトル(仮)がツイートされたりしていたところでの待望の第一歌集だ。義妹や姪という新しい親族や、仕事や暮らしのなかにある人生の陰影が題材となっている歌が多いが、本文はスタンダードをキーワードにして歌集を読んでいきたい。   ナポレオンは三十歳でクーデター ほんのり派手なネクタイでぼくは  引用歌は栞文で松村由利子が引用しており、ナポレオンの偉業に対して、〈ほんのり派手なネクタイ〉を締めるささやかな矜持を評価している。このささやかな矜持は歌集をとおして感じる。   (たぶん正しい)日傘に影をにじませて母親セミナーに友は通えり    うまく生きるとは何だろう突風に揉まるる蝶の翅の確かさ   きみの正論のあかるさ レリーフに右耳のなきうさぎ跳ねおり  本歌集は正しさ、確かさなど、社会に構成されたスタンダードを認めつつ、でもそれだけではないよねと異なる立場を示唆する歌が多い。〈ナポレオンは〜〉の歌の、結句〈ぼくは〉のような示唆の仕方だ。一首目は母親セミナーに通う友について、まだ子がいない〈われ〉が、〈(たぶん正しい)〉と評価するのである。括弧で括ることと、〈たぶん〉ということで控えめなようで強調していて、客観的にみつめている。二首目は、上句は直接問いになっていて、下句で回答している。突風に揉まれる蝶はかなり危うい。蝶の翅も傷むかもしれない。その不確かさを不確かさと言わずに、〈確かさ〉といっている。三首目も下句でうさぎのレリーフは、話を聞くための耳が片方欠けている。しかし、上句は〈あかるさ〉と表現している。これらの歌をみると一見、淡い主張のようで、よくよく読むと強い示唆があるという歌がみえてくる。   すりへりし踵直せる細き指ていねいに暮らすっていいよねと言う   痛いほど鼻腔は乾く Party people《パリピ》なるあなたとはちがう夜を歩けば  しかし、スタンダードに生きる人々は大多数を占めるので、辻は志向と異なる人々とも当然日々接するわけである。一首目は革靴か、細き指なのでハイヒールのような女性用靴でもいいのだが、いずれにせよ仕事で使う靴だろう。休日に靴の手入れをしている人をみて、もしくは自分をメタ的にみつめて、〈ていねいに暮らすっていいよね〉と言うのだ。〈いいよね〉と同意を求めるということで、価値観の

秋の読書3冊

  水の気配 三遊亭園朝著『真景累ヶ淵』を読む  三遊亭園朝著『真景累ヶ淵』が角川ソフィア文庫から再販されており、表紙が美人画で妖艶だったものだから所謂ジャケ買いをした。シンケイカサネフチと読むようだが、まず読めないだろう。Wikipediaによると真景は神経と掛けてあり、怪談というよりは、神経症や因縁がキーワードになってくる。一八五九年の作と言われており、夢野久作や江戸川乱歩よりずっと前の作品にも拘わらず、内容に古さを感じさせない。以降の小説に影響をみることができ、本作が幻想推理小説の古典と言っても差し支えないと思う。  長編作品だが、各登場人物が関連しており大河小説のような壮大さがある。前半は幽霊というか呪いの事の発端が描かれ、後半は敵討ちの物語に収束していく。呪いは超自然的なものではなく、あくまで特定の人物の精神症状として描かれ、それよりも因果が大きな力をもって物語の底を流れている。時代背景的にダメな男が多くでてきて、酒・女で遊びほうけて、妻子を泣かすのだが、妻も呪いで顔面半分が腫れてしまってお岩さんのような容貌になって、病身である。よくもダメ男がのさばるのが納得いかないのだが、きっと落語を見終わったあと観客は「どうも新吉の野郎が気にくわねぇ」など話すのであろう。落語の脚本を読んで楽しむのは聴いて楽しむのと少しギャップがあるのかもしれない。読書はどこか素面だ。  時代的に近代文学より前の作品だが、美文で登場人物や風景の描写が繊細だ。幕末の作だけあって江戸の町人文化や、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で述べたような影の美学も感じられる。水の都といわれるだけありお隅という女性が夫敵討ちのために、雪の降る夜に川を渡る場面や、花車という角力が追い剥ぎを沼に放り込む場面など、水辺がよく出てくる。登場人物の心情の演出にやはり一役買っており水の流転の相がまさに人情といったところだろうか。   水の都 神経に幽霊はありと三遊亭円朝言いきわれも幽霊 東京は水多き街おいはぎを沼に放るとう落語ありけり 雪の夜の川を渡りて匕首を光らすおみなも江戸にありけり 一筋のひかりが漏れる家にいる女は編み物して物言わず 県道に土埃たつ埼玉は海のなき故郷われは散歩す 日没後目立ちはじめる大型のドラッグストア三店舗見ゆ うらめしく思わるる筋もあらずしてアロエを育てる独り身われは   

龍になる 日置俊次歌集『地獄谷』を読む

 本歌集は一貫して台湾での生活を詠んだ歌でまとめられている。あとがきによると台湾大学で研究することになり、その下見で台湾に行ったとある。あとがきによらなくても、「かりん」で日置さんの名前の上に台湾の地名がしばらく出てたので、台湾にいらしたことは知っていた。   「手紙《ショウジー》」とはちりがみのこと「人間《レンジエン》」とはこの世のこととおさらひ始む   「手紙《ショウジー》」ではなく「衛生紙《ウェイシェンジー》」といふらしいトイレでひとり頷いてゐる  手紙がちりがみで、人間がこの世のことと日本語との意味的な差があるが、そこに詩性を感じる歌。手紙がちりがみになるのは、俗っぽくなり面白く、人間がこの世というのは哲学的だ。そういうなかで、トイレに入ったときに手紙は衛生紙と言われていることを知る。ちりがみではなく、トイレットペーパーは衛生紙というのだろう。手紙で尻を拭くのは気が引けるが衛生紙ならふむふむと、納得しているところが面白い。   母親の赤き怒声す三度、四度、「ジャンハオ!」と同じ言葉が響く   「站好《立ちなさい》」とふ重き声なりひえびえと畏怖覚えたり母のその声   この声を聴くためわれはタイペイまでやつてきたのだ。窓を開けたり  一首目が先に出てくる。台湾語を知らない読者はジャンハオはわからないだろう。作中主体も急に聞こえた声に意味をとれず、音として聞いた感覚が、読者も追体験していることになる。二首目で〈立ちなさい〉のルビが振られてジャンハオの意味がわかる。そのとき〈畏怖覚えたり〉で作中主体や読者は心寄せをすることができるのである。三首目で市井の人の声を聴くためにやってきたのだという。学問や観光ではなく、生活を見にきたという国際感が出ている。一首目、二首目のレトリックは短歌においてはあまり見たことがなく、読んでいて面白く思ったし、臨場感が出てくる。   ドラゴンの燃ゆる鱗と呼ばれたる赤き実を胸に抱きて帰る   甘露なる「当たり」がまれにあるといふそれまでいくつ龍を食むべき   孤を好む海龍われの坂登る尾をすり抜けて群衆走る   雲龍に会ふためわれはここに立つ行天宮のまばゆき庭に  本歌集には龍を材にとった歌が多く出てくる。廟、ドラゴンフルーツ、雲、ポケモンGOで龍が登場するのである。一首目はドラゴンフルーツだ。とにかくドラゴンフルーツ

ユーモアの強さ 有沢螢歌集『シジフォスの日日』を読む

  今日手術しなければ死ぬと言ひ切られ夜桜の下《もと》運ばれてゆく   パジャマ姿の十三人の子供たちワルツを踊る武満徹の   麻酔覚めまづ聴覚がよみがへり夢と現《うつつ》は一本の線  読み始めて大変な始まり方だと思った。私はあとがきから読むのだが、作者は髄膜炎を患われ生死をさまよい、長期入院および入退院の繰り返しをしているという予備知識はあったが、壮絶な始まり方だ。一首目は栞文で穂村弘が昨日までの夜桜と今日の夜桜はまったく別のものになってしまったと鑑賞している歌。視点という観点で考えると、ストレッチャーで救急搬送されていくなかで、ふと冷静に夜桜をみる〈われ〉がいる。緊急事態のなかの一瞬冷静な感覚を読むことで、その後の重症さを暗示しているのだ。二首目は詞書に「ICU幻想Ⅰ」とあり、意識が混濁するなかでみている幻想を詠った作品。作者の過去の記憶が去来するような歌が並ぶが、夢のように破綻していて、それでいて単なる夢ではなく、意識が低下しているという生死の境という背景があるとなると、記憶というよりあの世とこの世の境でもあるのかもしれない。三首目は全身麻酔を体験したことのある人はわかるかもしれないが、聴覚から感覚が戻り、徐々にその他の感覚が復旧していく感覚がある。重症化した髄膜炎のオペ後ということで、未知の感覚だが、一本の糸をたどって戻ったというぎりぎりの感覚だろう。   ファントム・シンドロームてふ幻の手足も数へ蛸のごとしも   チャップリン髭生えたやうな違和感に声をあげれば羽虫なるらし  独特の感覚の歌もある。ファントム・シンドロームとは幻肢のことか。時に痛みも伴うようで、脳科学者のラマチャンドランが鏡を使用し、知覚のゆがみを訂正すると幻肢痛が緩和するという研究が「知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学、日経サイエンス、ニ〇一〇年五月号」で紹介されていたが、みずからの知覚の歪みや、蛸が空腹により自らの足を食べるという話もイメージするといいかもしれない。違和感だけではなく、蛸にまで詩的飛躍させると、みずからを食べるという気味悪さが、さらに違和感を際立たせる。二首目はユーモラスに感覚を詠っている。チャップリンは喜劇王であるし、髭を生やしたような違和感という奇想も面白い。   動き出せば白杖指示する点字ブロック ガタンゴトンと車を揺らす   排球のボールの

牧水との対話 伊藤一彦歌集『光の庭』を読む

 ふらんす堂の短歌日記歌集シリーズで、二〇一七年は伊藤一彦さんが担当。二〇一三年が坂井修一さん『亀のピカソ』で楽しく読んだことを思い返しつつ読み始めた。ふらんす堂の短歌日記シリーズは表紙が素敵で、坂井さんはデフォルメされた亀が描かれており、伊藤さんの『光の庭』は天道虫かスカラベのような昆虫がメタリックな虹色で描かれている。   しろたへの雪つもることなき山河《さんが》隠れあたはず恥づかしき時も 1/1   母の無き初の正月これまでにまして母感じ酒を酌みをり 1/2   娘らの幼きころの思ひ出に出てくるわれの乱反射せり 1/3  短歌日記の魅力は作者がわれに近く、そして抒情がたったいま湧いてきたものとして歌になされているところのように思う。一月は家族が集まる季節だ。なので、家族詠が多い。一首目は故郷を詠んだものである。宮崎はめったに雪は降らないそうだが、学生のとき一度降ったらしい。二首目は挽歌、三首目は家族詠。一月は過去と未来が混然とする季節でもあるのかもしれない。思い出のわれはモザイクのようなもので、きらきらと乱反射するように登場するというのが、はかなげで美しい。   新聞に「鳥フル・殺処分」の見出しわれには「鳥・フル殺処分」に見ゆ 1/30   「びんぼふ」は「ひんこん」ならず牧水は銭を恃まず銭を惜しまず 1/14   共生の森が照葉樹林なり 森のこころに人こそ学べ 2/26 照葉樹林文化論   春夏秋冬他《ほか》のいのちを奪ふなく他のいのちを支へ木木樹《た》つ 4/3   牧水よ飲んで寝てゐる暇ないぞ歌守《うたもり》ならば起きて歌へかし 12/23  若山牧水の研究で知られている伊藤だが、牧水を論じる際はおのずと環境も関わってくる。周知のとおり牧水は沼津の千本松原の自然保護活動に参加したこともあり、また自然に関する多くの随筆も執筆しているからだ。伊藤も歌を通じて自然と向き合っている。三首目は照葉樹林の生物多様性や生態学的にすぐれているところから、人間社会も共生しなければならないのではと投げかけている。エコ批評に終わらずに、元スクールカウンセラーだったときの問題意識につなげている。照葉樹林というのも象徴的な言葉の斡旋で、照葉樹林文化論というものがあるWikipediaによると、「具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食

夏と秋の境に二題

  死霊  埴谷雄高の『死霊』で三輪高志は幽霊をみるという。病床で寝ている往年の革命家三輪高志の元に亡くなった同志や、知らない人までも夜な夜な現れるのだ。作中の独自の概念である虚体が解き明かされていく後半になると幽霊はさらに広がりを持っていくが本文では割愛する。河合隼雄や吉本隆明などがユングのシャドウと結びつけてどこかで論じているような感じもする話だが、筆者はシャドウを想起した。   くらやみに燠は見えつつまぼろしの「もつと苦しめ」と言ふ声ぞする /宮柊二『小紺珠』  この歌をみかけたときに想起したのも先の幽霊だ。シャドウは過去にも未来にも存在して、誰よりも自分自身に関する理解と無理解をもって、ところかまわず迫ってくる。バージニアウルフの『ダロウェイ夫人』のセプティマス・ウォレン・スミスは従軍経験から心を病んでいるが、死別した友の亡霊に苛まれている。対話したり、罵ったり、ときに詩的なことを呟いている。そして人間のファウナ的な部分を呪いもする。『死霊』の三輪高志の弟の與志も同じく自らの肉体に違和感を感じ食事を拒む場面がある。こうした感覚は覚醒して感得するものなのか、誰もが元から持っているが無意識に抑圧しているものなのかわからない。引用歌がどこかそうした感覚があるように思える。それは宮とセプティマスの従軍経験の共通項であったり、『小紺珠』が一九四八年刊行で『死霊』が一九四六年から「近代文学」誌上に掲載ということから同時代の精神史的なものを考えるからかもしれない。こうした内省的な自己の掘り下げ方は坂口安吾の「デカダン文芸論」にもみられ、ここまで作家がそれぞれの作品で実践していると、自身を生き切った作家のストイシズムを思い知らされる。幽霊が夜な夜な現れるのは御免こうむりたいが、燠からうたごころが現れて「もつと苦しめ」などと迫ってくるともっと歌をつくれるかもしれない。   ミネストローネ  世界初のインスタントラーメンは日清食品のカップヌードルである。カップヌードルの歴史についてはあまり詳しくないが、ファンは多くいることは考えるまでもない。  本文ではカップヌードルBIGサイズの、カップヌードル、シーフードヌードル、カップヌードルカレー、カップヌードルチリトマトを食べ比べ、印象批評を試みた。  実験は昼休みを利用し、休憩室で行った。実験参加者は三十代男性の一人。