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ゼウスは牛に変身する 坂井修一歌集『青眼白眼』を読む

 坂井修一第十歌集『青眼白眼』は、第九歌集『亀のピカソ』と比較して、陰陽混交だが陰にややよっているとあとがきにある。この歌の境地は各方面で論じられており、斉藤斎藤は短歌研究二〇一七年十月号で、〈御徒町トイレの鏡 酔ひふかきわれは似てゐる中尾彬に 『青眼白眼』〉を引用して「濃密な人情噺のあっさりしたサゲのような、軽みの凄みにのけぞったのだ。」と述べている。松村由利子は「かりん」二〇一八年五月号では「われの」拡大は『青眼白眼』で随所にみられるとして、「しじみ蝶になり、岩飛びペンギンになり、ついには桜とも一体化する「私」である。「まつぱだか」であることが恥ずかしくてならないのだが、そこには名誉や矜恃など一切をまとわぬ清々しい幸福感が溢れている。」と考察し、斉藤の激賞した〈中尾彬〉の歌を含めてアニミズムは坂井の新たな境地ではないだろうかと述べている。  さて、本文では『青眼白眼』に収録されているアニミズムの歌を鑑賞し、その魅力に迫るとともに、その多様性についても考えていきたい。   鎌をもて蝶を待つのはおかあさん ガジュマルの中あそぶはわたし   アキレスがいつまでたつても追ひつけぬカメの花子がわたしを濡らす  一首目は沖縄大蟷螂を題材とした歌で、おかあさんの蟷螂をみている。この歌には蟷螂になる、なりたいといった言葉はなく、連作中の他の歌をみてもない。しかし、視点が蟷螂に近く、虫めがねをのぞいているか、「われ」が小さくなってしまっているかのようなカメラワークである。この歌から生物学者のような分析的な視点もみてとれる。二首目はゼノンのパラドクスが題材だ。アキレスが追いつけないただならぬカメは花子という卑近かつ、寓話的なカメだ。そんなカメがゆっくり私を濡らしていくのである。さらっと詠っているが、パラドキシカルな存在への親しみがあり、内容は重厚である。   ものおもふスプーンがこんと音たててカレーの底の皿に触れたり   十人に抜かれ一人も抜かざりきいつからこんな良いカメである   老荘に遁走するは得意技 眠つたふりの亀がいつぴき  このような歌も独特で、スプーンがカレーのなかに沈みゆくさまを、考え事をする「われ」に重ねつつ、こんと底に触れたときに、何かに行き当たるそんな歌だろう。先ほどの蟷螂の歌より、スプーンの歌のほうが抑制されている。嘱目詠的な歌にアニミズムが控

木星散歩 馬場あき子連作「海の金星」(歌集『ゆふがほの家』所収)を読む

 馬場あき子歌集『ゆふがほの家』は二〇〇六年に出版された歌集。イラク戦争や日本の停滞感が歌集に反映されている。ゆふがほの家は馬場の家として詠み込まれており、〈ゆふがほの家も今宵はうたげして若きうたよみ叱られてをり〉という歌も収められている。夕顔が実際に咲いているという読みもいいのだが、〈夕皃《ゆふがほ》の花しらじらと咲めぐる賤《しづ》が伏屋に馬洗ひをり 橘曙覧『志濃夫廼舎歌集』〉のような歌がある。橘曙覧の息子の遺歌集で、夕顔の花が先めぐる小さな家に馬を洗うという歌なのだが、橘曙覧の家には多くの門人が出入りする家だ。そうした文学サロン的であたたかな家がゆふがほの家なのかもしれない。  さて、本文では本歌集のなかでも連作「海の金星」に注目して、『馬場あき子新百歌』を参照しながら、連作「海の金星」が歌集の中にどのような位置づけを占めているのか、また連作の描く文学世界を探っていきたい。まず第一にいえることは、本連作は歌集のテーマが凝縮されていることが指摘できる。   明星は夜深き海を上りきてぎーんぎーんと呻吟《によ》ぶならずや   ゆふがほの家も今宵はうたげして若きうたよみ叱られてをり  まずは歌人としての<われ>を詠った歌である。陸奥湾が連作の舞台だが、歌林の会の全国大会の会場であったらしい。筆者は『馬場あき子新百歌』で〈野辺地《のへじ》よりみる暗黒の陸奥湾に巨き一眼をひらく金星〉を一首目ともに引用し、金星は〈巨き眼〉で〈幽冥〉・此世を見つめ〈呻吟《によ》ぶ〉とは歌人のようだと述べた。さらに馬場自身ではないかと推測した。二首目は連作「ゆふがほの家」からの引用歌。橘曙覧が下敷きがあるとすれば、より濃厚に歌人としての〈われ〉が立ち上がっていく。   海を上る明星《あかぼし》ながく見てゐしが幽冥《かのよ》暗しと吾を呼ぶ父   今もなほ隆起してゐるといふ山塊の父のごとき意志思ふ秋の日  父の歌は一首目は連作「海の金星」から、ニ首目は「上高地」からの引用である。ニ首目については加藤トシ子が『馬場あき子新百歌』で取り上げており、父というモチーフについて「馬場は奥穂高岳などの山々の底で起きている地殻変動の力に意志のようなものをみている。それも「父のごとき意志」を。無口で何かに耐えながら意志を秘めた父の内面、矜持に重ねて思うのだ。」と鑑賞している。そんな父が一首

秋の夜長に 米川千嘉子歌集『牡丹の伯母』を読む

 『牡丹の伯母』は個人から社会、過去から未来と、縦軸横軸を広げて人間を描いていく。広げて広げてその中で思いを寄せたり、考えたりすることは、ときとして辛いことでもあるし、自分も無防備にならなければならないことがある。そんな歌集を嘆息し、憧れ読んだ。   中年のわれ目覚むれば二十代のわれのこびとはわつと駆け去る   蓮船に運命のごと夫婦乗りジェット噴射で蓮掘りつづく   白粥をすする無数の父と母ありてとぷとぷ白粥の河   出来損なひの人間は声が出ぬといふあなたが大事と今日も言はざる  『吹雪の水族館』は震災詠が多く社会に対する眼差しが強かったが、『牡丹の伯母』は家族やわれを詠った歌が多い。一首目は中年になり、知識も人生も二十代のころとは比べられないほど蓄積したわれでも、断片的に二十代のわれがいる。睡っているような無防備な状態では二十代のわれのこびとはのびのびと、夢の中や、ガリバー旅行記のようにわれの周りにいるのだか、目覚めると驚いて逃げてしまうという。二十代のわれにとって、時間は畏怖すべきものでもあるという、やわらかに詠んでいるが、示唆の多い歌だ。ニ首目は蓮根農家の歌だが、沼の上を夫婦が船に乗り、ジェット噴射で蓮を掘るというのも、なんともメタフィジカルな場面である。この歌から夫婦生活含め人生の困難や、そのなかでの家族の存在などが読み取れる。三首目は福祉施設の場面だが、無数の父と母という。日本の厳しい人口動態とそれにまつわる社会問題、そしてそのなかで父母と子の生を思い、そうした不特定多数の生が流れて行く様を白粥の河に託した。四首目は西行が人間を作り出す説話が題材だが、あなたは夫を指すと読んだ。そうすると下句の言葉が切実に感じる。   銀色の高層ビルを仰ぐときおもふ近代断髪のをんな   中古品となりし歌集を買ひもどす互ひにすこし年をとりたり   「誠之助の死」はふたたびつひに届かざらむすでに久しかる〈反語の死〉  生活詠というより、歌人の生活詠というのだろうか、歌人としてのわれを詠んだ歌も多い。一首目は青鞜や明星の女性文人を彷彿とさせる。銀色の高層ビルはいまや多くあるが、やはり現代を象徴している。近代断髪のをんなはモダンガールを彷彿とさせる。取り合わせもなかなか美しい。しかし、ビルを仰ぐときに、現代ではなく近代断髪のをんなを思うところが米川の視点である。近

ポケットに角茄子を 寺山修司展吟行記

 二〇一八年十月十四日にかりんの若手で若月会吟行に行った。場所は神奈川近代文学館で、特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」を鑑賞したあと、赤レンガ倉庫群のオクトーバーフェストに参加した。  寺山修司は『寺山修司青春歌集』を読んだことがある程度で、天井桟敷やその他の文筆活動は知らなかった。また、「チェホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞した馴れ初めなども何かの評論で読んだ程度だった。まず寺山修司展の力が入っているところは、神奈川近代文学館周辺の庭園にも寺山の短歌が飛び散っていたことだ。煉瓦に初句、ニ句……と言葉が書かれていて、並んでいるなど、館内に入りらない言葉の量だ。言葉の錬金術師と呼ばれた寺山の世界観の広さが伺える。そんな寺山は、生前馬場あき子(先生)と親しかったということだが、馬場先生と寺山のエピソードをみると、時間のズレを感じてたまにしっくりこないときがある。おそらく寺山は伝説になり、馬場先生は生ける伝説だということだろう。そんな寺山展だが、内容に関してはまずは公式Websiteの紹介文をみてほしい。 寺山修司(1935~1983)が47歳で亡くなってから35年が経過した。本展は、寺山の秘書兼マネージャーをつとめた田中未知氏が長年収集・管理してきた資料を中心に構成。 類いまれな才能が生み出した多様な表現世界を重層的に紹介し、寺山修司とは何者であったのかを探る。また、あらゆる活動を通して寺山がこだわり続けた「言葉」を会場内外に掲げ、その伝えたかったことを繙く。精神的、社会的に孤独を抱えながら現代を生きる我々へ時空を越えて発せられるメッセージを、この機会に受け取っていただければ幸いである。 (神奈川近代文学館、特別展「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」、www.kanabun.or.jp/exhibition、最終閲覧日2018.10.15)  上にあるように書簡やノートの展示品が多く、様々な活動を広く深く紹介している。また、詩句がところどころ視覚的に配置されてていたり、映像作品が流れていたりと、現代アートの展覧会のような趣もあった。他の客のなかには「文字が多い」とか「こんなん読んでたら頭がおかしくなる」、「まだ生きているんじゃないか」などという言葉を漏らしている人もいた。たしかに寺山は俳句、短歌、自由詩(視覚的な詩もあった)、放送作家、エッセイ、劇団と

とどのつまり 岩田正歌集『柿生坂』を読む

 岩田正を形容する言葉に多くヒューマニズムという言葉が用いられる。ヒューマニズムは人間主義などと日本語に訳せられるが、文脈によっては必ずしも肯定的に用いられない厄介な概念というのが筆者の認識だった。寺井淳は「そこには人間がいる 岩田正の歌人論―『釋迢空』『窪田空穂論』『塚本邦雄を考える』」(「かりん」二〇一八年十月号)で『釋迢空』において、迢空に愛着と執着、偏執的な人間愛があることを岩田が指摘したことを紹介し、岩田が歌を通して〈人間〉を見るとはこういうことであると述べている。坂井修一は同号で岩田を「無類の歌好き、無類の人間好き」、「自身の中においては人間の弱さを厳しく糾弾し続ける人でもあった」と述べている。こうした論から岩田のヒューマニズムの輪郭がみえてくるのだが、筆者は「人間好き」とは何かという壁につき当たった。しかし、実際に歌を読んでいくと、数あるうちの一つの答えであろうが、それは人の営みではないかという示唆を得た。   古本屋出れば現代の風吹きてミニスカートと髪を靡かす 『レクエルド(想ひ出)』   列車にてくるまにて見る景よりも眼凝らし老いてみる景ふかし 『柿生坂』   灯油売り携帯電話《けいたい》売りと売りをつけ呼べば風俗古めきてみゆ  岩田の作品は都市風俗を切り取った歌が多い。一首目は古本屋とミニスカートの対比が鮮やかだが、谷川俊太郎の「生きる」の〈(略)生きているということ/いま生きているということ/それはミニスカート(略)〉を下敷きにしているのだろうか。そうするとミニスカートと髪が靡くという瑞々しい光景は、現代であり、生きるということなのだろう。二首目は列車に乗るにも鈍行を好む岩田だが、さらにおそらく歩きで眼を凝らしてみる景に深みを感じている。歌の中で〈見る〉と〈みる〉が使い分けられていることからも、視覚だけではなく五感や、さらに自分の深部でみるのだということなのだろう。三首目は携帯電話ショップという今様の題材を詠み込んだ歌だが、ガソリンスタンドにも携帯電話ショップにも、〈売り〉をつけることで人間の営みである風俗に還元させている。一首目を読むとヒューマニズムはバイオフィリアに近い感覚なのかもしれないと思えてくる。同号座談会では岩田はニヒルや毒に警戒感を持っていたというエピソードがあるが、ニヒルはネクロフィリアに通じるところがある。三首目の都市

秋のハーゲンダッツ 「わせたん失恋部」「ほとり」vol.3を読む

 秋の夜長に長編小説もいいけれど、仕事終わりの夜などは特に読みあぐねるのは否めない。そんな夜はさくっとネプリを読むのもいい。きっとネプリは寝る前に食べるハーゲンダッツ(血糖注意)のように楽しむものなんじゃないかと思った。2018年秋は「わせたん失恋部」と「ほとり」vol.3を読んだ。  「わせたん失恋部」は冒頭で「なにを詠んでも失恋になっちゃう時あるよね」という話で発足したとのこと。たしかに今の恋愛観は『みだれ髪』や『サラダ記念日』とはほど遠いよなぁと思いつつ、一九八八年生の私の時代でさえそういう風潮だったので、安易にバブル崩壊以降の風潮なのかななどと思った。   音もなく花瓶の水を飲み干してただ愛でられる存在となる /尾崎秋南   縁語より強く繋がる岸と舟 もうどこにでも行けるはずでしょ? 同  花とはいってはいないが自分を花にたとえた歌。だが、花でいいのではなく、下句で受動的な存在であることに違和感を感じている。連作を通じてどちらかというと相手を自分の外に押し出すような内容である。二首目は一青窈の『ハナミズキ』よりも少しドライだ。〈縁語より~〉が和歌自体をモチーフにしており、下句の直情的な物言いに厚みを与えるのであろう。   歯並びの壊れたとこに舌を入れ告げぬことみな熱かった夏 /染川噤実   春あなた、夏にあなたを好きなわたし、秋には完璧になる離散は  連作タイトルが「秋には完璧になる」とあるように季節をモチーフにした歌が配置されている。夏は瑞々しい場面が切り出されている。細かい場面設定が効いていて、下句が観念的だが説得力がでるようになっている。秋は紅葉が散る季節だ。二首目のようにきれいに散っていくのが完璧とすると滅びの美学のようなものがあるのだろうか。   不完全の意味を英語にもつと言ふ檸檬まはりつつ落ちゆくレモン /加賀塔子   一日の感情を押しあててゆくアイロン台を最後になでる  連作一首目に帰省の歌があり、所々に回想の歌が入るので、過去の恋を回想しているという連作だろう。文語口語ミックスで、旧かなと全体的に手堅い詠みぶりで、引用一首目なども梶井基次郎『檸檬』や高村光太郎『レモン哀歌』などをよぎらせるレモンという斡旋が文学的だ。この歌に関しては光太郎のほうがイメージは近いか、しかし『レモン哀歌』よりアンニュイなのは不完全と