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冬眠せずに gekoの会vol.9を読む

 2018年年末にgekoの会のネプリをグーグルドライブで公開した。酒を飲めない若者という触れ込みで認知度があがった年だったように思う。2019年もファミレスで歌会をするのだろう。   赤いリュックの少年が来て肖像の裸婦から少し目を逸らしたり 貝澤駿一「叙景詩」  「叙景詩」は美術館が題材になっている。ムンク『叫び』など名画が詠まれ、また、美術館近郊の嘱目詠も収められている。引用歌は裸婦とあり、裸婦像のことだ。特定された絵ではないので、ボッティチェリでもゴヤでもいい。赤いリュックの少年は芸術を見にきたのだが、裸婦像を前にして羞恥心もこみ上げてくる。この童貞性が魅力的で、赤いリュックというアイテムも少年の輪郭を形作っている。思春期のさりげないスケッチの一首は、絵画のようでもある。   愛玉子の店があるのは言ふならば〈上野桜木あたり〉のあたり 永山凌平「アトリエ」  「アトリエ」は城東が舞台で、「叙景詩」とともに上野成分が濃い目だ。上句は〈あるのは〉と〈言ふならば〉と回りくどい言い方だ。下句も〈あたり〉が繰り返されている。愛玉子《オーギョーチ》というわかりにくい食べ物の店が、まどろっこしい言い方で説明されているところが、わかりそうでよくわからないところを表現している。話し言葉のような文体で、固有名詞もありリアリティがあるのだが、靄に包まれているような感覚が面白い。   保留音が中途半端なとこで切れ頭の中で続きを鳴らす 山川創「あるいは悪夢かもしれない」  電話の保留音に限らず、聞き慣れた音楽が途中で途絶えると、続きが脳内で再生される現象がある。大学で行動主義心理学を学んでいたときに、それは反応と反射で、直前のフレーズに対して、次のフレーズが来ることを学習しているため、脳内で再生されるのだと習った。多くはないが一部の人たちに共感を呼ぶところをついてくるのが山川の特徴の一つだ。〈ところ〉と言わず、〈とこ〉と言うところも、普段着の言葉かつ、拍子抜け感もある。また、中途半端なところで切れるのは気持ちが悪いことで、そうした何でもないところで感じる小さな気持ち悪さを歌にしているところも面白い。

511本足の蛸 短歌アンソロジー「OCTO」2018を読む後編

 「OCTO」を読むの後編。歌集が何冊もあるようなボリューム感に私は読破できるのだろうか(読破はしています)。   あとすこしといひてふたたびまへをむく頭に春はひかりをふらす 花笠海月「春の海A」   石だつたころの記憶をけづりとり海に溶かしてくれるか波は 「春の海B」   くちびるをとがらせ強く吸ひあげる黒タピオカをあじはふために 「sweets」   白菜のおほきひとつに刃をいれてたてに割るそしてまたたてに割る 「白菜ツナカレー」  一首目と二首目はタイトルがAとBあり、何か面白そうな意図があるのではないかと読んだ。が、ちゃんとその仕掛けがわかったか自信がない。最初は二人別の〈われ〉が想定されているのではと読んだ。Aのほうが平仮名が多く、韻律もア音とウ音が多く、破裂音や濁音などが少ないため、柔らかい韻律になっている。また、読むと情感のある相聞歌という印象を持つ。BはAに比べると韻律より意味に比重が乗っている。引用歌のように精神的な交わりを隠喩的に詠った歌やエロスのある歌が並ぶ。一通り考えたあとで、カセットのようにA面B面で、〈われ〉の表裏ある心理を描写しているとも読める気がしてきた。三首目の連作「sweets」は肉感的な甘味の歌が並ぶ。性愛歌ではなく飲食の歌なのだが、これは各々読むことをおすすめする。四首目は白菜ツナカレーというタイトルが美味しそうで気になる。ちなみに五首で連作は構成されており、五首のなかで白菜ツナカレーは出来上がる。料理を作るとき、こだわりのスイッチがはいることがある。そうした没頭感も〈白菜の根にちかきところそぎ切りにきてゆくいちまいいちまいはぎつつ〉などのリフレインや、〈そぎ切り〉という切り方の指定によりみられる。短歌の韻律や暗喩を活かしつつ、表現していることはかなり前衛的なのではないかと思い読んだ一連だった。   十枚の絹《サテン》を剥げばあらわれる割礼をほどこされた魂 松野志保「ジュブナイル」   青と黄のタイルの床に背をゆだね確かめる変声期の終わり   少しだけ血の混じる水 薔薇であることを忘れてしまった薔薇に 「終わりのある幸福な時間」   ウォルニッケ野に火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く 「われらの狩りの掟」  連作「ジュブナイル」は少年同士の恋愛がテーマだ。一首目は詩的な言語により構成されているが絹

梅林の舟 佐伯裕子歌集『感傷生活』を読む

 子、母、義母、祖父など家族の歌が多い。家族詠といっても生活に根ざした歌というわけではない。それぞれの時代や、社会的背景、われからの立場はバラバラで、家族を起点に広がる世界がある。   いんげんの筋とりながら母もその母もこうして塞ぎこみしか   誰とても親の裸は見たくなく襖のようにそろりとひらく   思い出はまるくて薄くてすぐ萎むタコの貌した赤い風船     一首目は、病床の母を思い塞ぎ込んでいるの場面だろう。母系のつながりを意識しており、いんげんの筋とりから辿っている。〈縁側に隠元豆のすじを取る女手という手は消え去りぬ〉という母が亡くなったあとの歌もある。思わず自らの母の手を思い浮かべる読者も多いのではないか。二首目は家族介護の歌だ。家族介護は認知症やその他様々な疾患により親に対するイメージは変わっていくものだ。その違和感と葛藤しながらの介護というのは身体的・心理的というより、たましいの次元で苦難がつきまとう。歌集には壮絶な歌は多くはないが、引用歌のような違和感は出ている。それらを緩和するように下句は少しユーモラスな表現にしているのかもしれない。三首目は母と死別した連作の中の一首で、思い出を下句で比喩的に表現している。タコの風船という題材にノスタルジーもあり、しょぼしょぼ萎んでしまい、風船の用途を失ってしまうという、どうしょうもない喪失感を歌にしている。タコの風船というのも悲しげのなかに、ユーモアがあり悲喜の二元論では表せない抒情がある。   廃棄業者さがしておれば一生もぽいと放れる気のして来たり   大胆に老いよとひらく桜ありもうぼろぼろの黒き幹より   この星の面会時間に祖母に会い父に会い母に会いて別れし  母との死のあとは一首目のような、人生の重みについて考えるような歌もみられる。そして、自らの老いも自覚してより一層人生について考える歌が詠まれる。二首目も上句だけなら老いの肯定の歌だが、下句で無条件に肯定するのではなく、実際はぼろぼろだと詠っている。言葉は平易なのだが、重い歌だ。しかし、三首目のように時間の経過とともに生命のつながりを、〈この星の面会時間〉と詩的に表現し意識するようになる。この星というからには、あの星も想定されているのであり、仏教的な死生観がみられる。   郵便配達研修のために出てゆきし子の部屋にうすき綿ぼこり降る   

511本足の蛸 短歌アンソロジー「OCTO」2018を読む前編

 「OCTO」2018は井上久美子、遠藤由季、佐藤りえ、富田睦子、花笠海月、松野志保、吉村実紀恵、玲はる名(敬称略)がそれぞれ七十三首を寄せている短歌アンソロジーの同人誌である。メンバーをみるとそれぞれの発表の場や、結社誌で自他ともに実力が認められている中堅歌人たちで、文フリで即買い必至の同人誌なのは間違いない。本誌の七十三首という量については、たとえば歌集を読むときに入りこめるタイミングは読者それぞれだろうが、私は四分の一あたりからのような気がする。そのあたりから展開が気になりだしたり、私性みたいなことを考え始めたり、作者の属性を踏まえて読んだりする。本誌の連作をちょうど読み終わるあたりで、もっも先が読みたいのにと思ってしまうのである。前置きが長くなった。さっそく作品に触れていきたい。   下の子は二日目となる 肩までの髪は自分で梳いただろうか 井上久美子「イデンケン」   北口のドトール少し混んできて氷は水に戻ってゆきぬ   窓に見る改札はどこか遠い門 くぐり方さえ思い出せない   「ママでも」と雑誌の表紙に梨花おり大きな口をぱかっと空けて   行ってきますと高らかに言えるひとたちを微笑みで送るひとになりたい  連作名でもあるイデンケンとは夏休みこども遺伝学講座の遺伝研のことだと他の歌でわかる。井上の連作はイデンケンへ子が参加して、母である我と距離ができたことをきっかけに、子を相対化してみつめ、ひいては我自身もみつめるという連作だ。一首目はまさにその連作のモチーフが凝縮された歌で、キャンプなのだと思うが、「二日目」と子だけで過ごした時間の経過が詠われている。さらに自ら髪を梳いたかと思いを巡らせいるのだが、髪は〈髪《かみ》五尺ときなば水にやはらかき少女《をとめ》ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子『みだれ髪』〉のように女性の象徴であり、それを自ら梳いたか問うことで、子の自立をおそるおそる見守るさまが詠われているのである。また、二首目のような地の歌でも時間の経過が表現されている。連作を通して読むと、時系列になっており、イデンケンという短い時間の中に、子の成長という時間が内包されているようでもある。また、三首目のように子を通して自らにも時間の経過の眼差しを照射している。改札は社会人生活の象徴だが、遠い門になっておりくぐり方が思い出せないという、どこか映画的、映

環境と石鹸

 二〇一八年は環境哲学や環境文学の本を多く読んだ。まだ二〇一八年初旬は一部の経済ニュースで気候変動の経済リスクが指摘され、マイクロプラスチックに関しても報道にはあまり出てこなかった。ちょうど環境リスクへの懸念が広る前に勉強してしまおうと思ったのである。クリティカルに文学をするのなら残念なことに、人類の問題は題材である。それが二〇一八年下旬にかけて一気にニュースに流れ、今や気候変動の深刻さは周知の事実になってしまった。私の感知・行動が遅かったのは否めないが、さすが情報社会だ。ただ、これも残念なことに大きな問題なのでしばらく題材として向き合えるだろう。  いまだにコンビニで袋を断り切れないときがあるから駄目だ。以下、二〇一九年の作歌始め。石鹸は排水時に分解されるため環境にいいそうだ。釜で炊くときは石油をつかうだろうが、石鹸自体は植物性だ。何にしても石油は使う。地中から汲み出して燃やす。その炭素の幾ばくかをわが家のアロエは光合成で固定化させる。   石鹸 幾層も痩せてゆきたる石鹸をいじめいじめる夜もあるなり 殺菌より除菌というべき優しさにつつみゆきたり石鹸はわれを 純石鹸なれば石川啄木もつかいけるかな泡立てており くれないの枯れた色には名はないぞ野菊が風に揺れるからから 香油とうものがありしか白秋の詩にもありしか風呂で思いぬ 煩悩の数だけ鐘を突き続けまだまだ足らず今年も突くのか 温泉の描写の多し温泉の少女の描写はさらなり太宰は 正月の歌並びたり啄木の笑いに声なくニヒルありけむ 樹脂製の軽石もありなめらかな石鹸もあり石とは何ぞ 湯けむりのなかでは消えてゆくものを詠ってしまう〈われ〉ももれなく