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枝豆をつまむひと 川島結佳子歌集『感傷ストーブ』を読む

 本人を知って読む歌集というのは、知らないで読むことと異なると思う。川島さんは私より一年かりんの先輩で、私が指で五七五…と数えなくても歌が詠めるようになったあたりで、活躍し始めたすごい先輩という印象だ。雑談や歌評のときに印象深いのは、ギャグと真面目の落差の深さだ。それは歌でも共通する部分がある。   寒いこと伝えるために息を吐く全く白くならない息を   「ふざけてる君が嫌いだ」正月の風吹く上野駅であなたは  〈「お前はもう、死んでいる」とか言いながらあなたと食べる胡桃のゆべし〉、これは有名な歌で面白い歌と評されることが多い。たしかに〈ゆべし〉と〈あべし〉が掛かっておりユーモアはあるのだが、先の引用ニ首と共通する生真面目さがある。われは君に寒いことを伝えたいのだが、君は室内にいるか、 無頓着で上着を着ないのかもしれない。そんな君を心配し、口頭で寒さを伝えるだけではなく、息を吐いてその白さで寒さを伝えようとするのだ。これは経験や感覚を通じたコミュニケーションで、言語よりも感覚的で説得力がある。相手を心配し言葉以上の表現で思いを伝えようとするのが川島なのだ。そして、息を吐いたが白くならないというオチも用意しているのが川島なのだ。半分笑い話しにして相手に重く思わせないようにすることや、何かの世間話の際に照れ隠しでオチをつけるような機微がある。〈「ふざけてる君が嫌いだ」〉というのはどこまでその君がわれの内面を見つめて言った言葉かわからないが、筆者は笑いの奥にある真面目さを看破して、心理的に無理をしている君のことを嫌いだと言った歌だと読み印象に残った。栞文で佐佐木定綱がゆべしの歌などを引いて、「川島の笑いにあるのは、ただ楽しいからといったポジティブな側面だけではない。多くは現実の絶望との摩擦で起きた火花、死なないための手段だ。」と述べながら死のイメージが内包されいる理由を考察しており、川島の笑いの底には様々なものが潜んでいそうだ。   上を向くリクガメ元に戻しつつ自然界ならどうしたのか訊く   新緑の季節あなたはどうするの。コノハチョウ、コノハの面だけを見せ  このニ首は問いかける歌だ。〈寒いこと伝えるために息を吐く……〉も歌の前段階に「寒くないのか」というようなコミュニケーションがあったことが予想でき、問いの歌というところでは共通している。リクガメの歌は水族館や

May the Force be with you. 坂井修一歌集『古酒騒乱』を読む

 『古酒騒乱』という題名ほど象徴的なものはないというのが読後感である。美酒でもだめで古酒という重厚感があり、仙人が飲んだり、土地の歴史を負ったり、ときに錬金術めいたモチーフであるというのがポイントだ。   薩摩よし黄金千貫焼酎となつてほろほろわたしを泣かす   焼酎よいづれこの世は照り翳りスカイツリーの青の明滅   泡盛はひかりをたたふ くちびるをかすかゆがめてひと笑ふ国  とりわけ芋焼酎は香りに癖があり、好き嫌いが分かれる酒である。ビールより静かに飲み、ワインよりも庶民的な飲み物だが、地酒となると特別感がある酒類でもある。そんな薩摩の芋焼酎は黄金千貫からつくられることが多いらしい。黄金千貫という薩摩の風土に根ざした芋が焼酎となって、わたしを泣かすという、薩摩の風土とわれが出会った歌である。また、次の歌では焼酎は理知的にも詠まれ、スカイツリーが明滅している様を時代の趨勢と重ねている。〈焼酎よ〉は詠嘆でもいいが呼びかけとも読める。焼酎といういつの時代にも飲まれてきた酒はまさしく古酒というべきで、歴史を超越した存在のように詠み込まれている。泡盛は沖縄の酒だが、下の句は沖縄の歴史的な困難さを表している。そして、いまそれを詠うことで、沖縄の海が政治(軍事というべきか)利用されている現状を間接的に読者に提示することになる。悲惨さで終わることなく、ひかりをたたふと泡盛を言祝ぐところに、沖縄への心寄せがあるが、示唆的な表現に留まるところが詩的でもあり、また手放しに言祝げない現状が反映されているのであろう。   剣菱を干してまた酌む夜のはて四角四面のきんつばがゐる   きんつばの皮のなかなるつぶつぶは暴れたからむことば知らねば    剣菱は日本酒で、肴にきんつばを合わせているが、甘いものをつまみにするというのは通好みなのだろうか、筆者は下戸のため酒の飲み方については詳しくない。引用歌が収められている連作はきんつばを起点に展開しており、喩を巧みに使い多くのことを詠んでいるように思える。四角四面というと生真面目という意味で、生真面目なわれの歌と読むのが順当だが、連作中には四角四面なものが多く登場する。連作のなかできんつばは刀の鍔が由来で、武士のたましいを象徴していることや、幕末の剣士で通称人切り以蔵と呼ばれる岡田以蔵が出てくる。人斬りという物騒な名前だが、もしかすると日本

ピカソと暮らす 坂井修一歌集『亀のピカソ』を読む

 最近日記をつけるようになった。短歌よりも日記はもっとぼんやりとした随想めいたことも書けるのが魅力だろう。日記と短歌の間にあって、生き生きとしたわれが時系列で読めるのが短歌日記だ。本文では本書をあえて生活、とりわけ生業をもつ歌人としてのわれに引きつけて読んでいきたい。   ハードディスクざざと唸りて月曜日はじまらむとす液晶の上   〈ことば〉こそ貧者の宝 外套の裾ゆらゆらとあそばせて今  生活の大半を占めるのは仕事である。多くの歌人が短歌と仕事の両立に思いを巡らせてきたでろう。今はどんな職種も仕事始めの最初の作業がパソコンの起動である人が多いと思う。次第に例えばWindowsの起動こそが、勤め人われの起動なのかもしれないという着想が浮かぶこともあるかもしれない。引用歌では〈液晶の上〉から月曜がはじまっているという、眼目に面白さがある。貧者というと経済面もそうだが、社会的階級のほうがしっくりくる。それはいわゆる抑圧された存在かもしれないし、啄木のような文人かもしれない。ことばは文学、哲学、思想などの場面で貧者に寄り添ってきたのだ。外套は書かれていないが、黒色がふさわしい気がする。そうすると木下杢太郎を想起する。杢太郎は大学の講義の合間、ステッキ片手にふらっと散歩をして物思いをする人物だったようだが、そんなひと場面かもしれない。   秀才君どうか賢者になつてくれ わが祈るときガウン波打つ  教授として多くの学生と接する作者だが、東京大学大学院というと日本の知のトップである。しかし、学生は秀才ではあれど賢者ではないという。坂井が「サイバースペースとセキュリティー」(第5回 情報社会と人間  情報管理 Vol. 59 (2016) No. 11 p. 768-771) でドストエフスキーの『悪霊』のニヒリストのスタヴローギンについて触れて、「単なる知識ではいけないのだろう。怖さが身にしみていなければ。実際にこういう人物に会って感じることが一番なのだろうが,力ある小説や絵画は,間接的にではあるが,このことを五感に訴える形で私たちに知らせてくれるものと思う。こうした私たちの感情生活に食い込むような教養こそ,情報社会のセキュリティーを考えるうえで必須のものと思う。少なくとも,セキュリティーを検討する中心になる人々は,そうした教養の持ち主でなければならないのではないか。