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かりん一首鑑賞2020年2月号

  蕎麦猪口を蕎麦入りチョコと誤解する学生たちと夜の渋谷へ 黄郁婷「普請中」「かりん」2020年2月号  渋谷を舞台にした連作だが、引用歌は渋谷とあまり関係ないのだが、面白い歌だ。黄は「そばちょこ」といわれて蕎麦猪口とわかるのだろう。しかし、周りの友達は蕎麦入りチョコを想起する。留学生の黄はわかるが、日本人である友達は全く別のものを想起するというのが眼目なのである。そして、渋谷で華やぐいまの学生は蕎麦猪口を知らないのだなあという詠嘆も歌に潜んでいるようである。  チョコもいまは柚子味やその他探せば変わり種がたくさんありそうだ。また、麦チョコやチョコクランチがあるため、そばの実にチョコがコーティングされているお菓子なども容易に想像ができる。渋谷に向かう途中に蕎麦猪口という言葉が誰かから出てきて、蕎麦チョコってなんだろうと学生たちが話に盛り上がり、そのまま普請中の渋谷になだれ込むというワクワク感もこの歌から読みとれる。もう渋谷は完成に近くなってしまったが、どことどこがつながるかわからない感じや、重機が都内の真ん中に出現するシュールレアリスムな感じは、生業に追われる日常では感じることができない、いわゆるあそびの感覚である。蕎麦チョコを巡って議論するのもまた然りで、そんなあそびの感覚があるので引用歌を読んでいて楽しいのだろう。あそびに染まる学生たちと、完全に染まりきれないが一歩引きつつも、一緒に楽しむわれがこの歌にいる。

くっきりとした四色の風 田中道孝連作「季の風」を読む

 本文は二〇二〇年二月のかりん勉強会「新人三賞を読む」用のノートということで作成した。筆者は第六十五回角川短歌賞受賞作である田中道孝連作「季の風」を担当した。本連作は建築現場の職場詠で、ユーモアや仕事の息遣い、ふと仕事場で思いがけない自然と出会うさまを描いている。   ごめんごめん俺のでんわは糸電話 鳩がとまると通じへんねん   くつしたの穴がほほえむはるのひにおかげさまでと手紙がとどく   わが背中《せな》に白き翼があるような小春日和をひとりゆくとき   君の机に蜜柑をひとつ置いておくぼくの言葉が飛ばないように  まず、われや場面がみえてくる歌を挙げる。糸電話の歌はユーモアがある。連絡無精の言い訳を言っているのだろう。下句の方言がより自己戯画化を演出している。面白いのだが、職場で歌のような冗談をいう先輩はいるよなぁというあるある感もある。くつしたの歌は上句で不器用さをだしつつ、下句で手紙がくるという展開があるが、少し展開が弱い。おかげさまでというのが抽象的で、手紙がとどくというのが少し平坦なのかもしれない。しかし、ほっこりとした雰囲気は感じる。わが背中にの歌は、合唱で歌う「翼をください」を彷彿とさせられる。「翼をください」は子どもの頃からの大空への憧れを抒情的に歌いあげているが、田中の歌は力強い羽ばたきというより、哀愁を帯びており、白き翼も折りたたまれている印象をもつ。蜜柑の歌は伊藤一彦が選考座談会で佳作として挙げていた。筆者もこの歌は魅力に感じ、われと他者の関係がある歌で、外に開かれているように感じた。   故障したタワークレーンにのぼりゆく上がれば 白き春の底見ゆ   陽のあたるクレーンのよこで飯食えば雲雀が空を押し上げている   クレーンの吊り荷を降ろし見上ぐれば黒雲のなか雷がかがやく   四百五十トンクローラークレーン座る現場にうろこ雲浮く   玉掛の人払いする笛をふくアキアカネ飛ぶ資材置き場で   誰も見上げぬ朝の月 クレーンは秒針のはやさで旋回をする  さて、クレーンの歌が五十首の内六首ある。クレーン単体で六首はかなり多い。クレーンの歌はしばしば目にすることがあるが、職場詠としてのクレーンは初めて読む。プロだけあってひとえにクレーンといっても種類や登場の仕方が異なる。一首目はクレーン自体も上昇するもので、タワーマンションの建設などでも目にする。上句が建

羅漢になっても酒をのむ 『吉井勇全歌集』より数首鑑賞

  大空はかぎりもあらぬ眼《まなこ》もてわれらを眺む秘めがたきかな 吉井勇『酒ほがひ』  青春性の高い相聞歌の連作の中の一首。眼は大空の雲でもなく、星や月でもない。大空に形はないが眼という円形のイメージがあったのは、見上げた半球全体が眼であるという大きな把握があるからであろう。この把握は独特で面白い。シュールレアリスムのような感覚だが、吉井勇はどのような気分で空を見たのだろう。お天道様がみているというような素朴な感覚という読みもできる。そっちで読むと伸びやかな歌でこれはこれでいい。上句でかなり工夫を凝らしていて、下句がどれだけ上句を支えられるかというところだが、〈秘めがたきかな〉は少しわかりにくい。前後の相聞歌を想定すると含羞の雰囲気が伝わってくる。なお、〈われら〉とあるが、われと君のことだろう。人類や市民まで広く読むことはできなくもないが、連作の雰囲気がそがれる。また、秘めた恋であるとも読めるので、逢引の気持ちの高まりも伝わってくる。   いにしへはころべころべと絵を踏ますいまたはむれにわが足踏ます 吉井勇『酒ほがひ』  転びキリシタンという言葉がある。デジタル大辞林によると「権力に屈して、キリシタン宗門を捨てた信徒。特に、江戸幕府のキリシタン弾圧政策による宗旨糾明・拷問の場においてキリシタン信仰を自ら否定した者。」とあり、江戸趣味の暗い部分であろう。かなにひらいてありゆるやかな韻律であるため深刻にはなっていない。下句で明治時代の今に転じるのだが、たわむれにわが足を踏ますというのは御座敷遊びなどでからかい半分で踏ませるということだろう。キリシタンの厳しい拷問に比べると牧歌的というか、耽美的というかである。たわむれに足を踏ませているときにも、踏み絵の暗さを想起しているところに風流人のどこか飄々とした雰囲気を読みとれる。ただ、吉井の時代と現代では時間がだいぶ隔てられている。今よりも踏み絵は近い時代のものであったし、遊びの機微ももっとリアルに息づいていたはずだ。そう思うと筆者はこの歌の根底に流れる気分は掴みきれないのである。   東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹《じんたん》の灯よさらばさらばと 吉井勇『昨日まで』  仁丹の看板が東京に大きく出ていた時代の歌。仁丹はいまは薬局でも探さないとないものだが、二世代前までは仁丹が流行っていた。そうした看板も当時は都会にし

真っ白な未来を茫と見る マーセル・セロー著『極北』を読む

 近未来小説というと進んだICTやAI、アンドロイドを想起する。が、本書を読み始めると、誰もいない街に住む主人公が、じゃがいもを育て、カリブーを狩り、馬で巡回している。リビングには朽ちかけたピアノラがあり、武器庫には本が無造作に積まれている。寒々とした景色はツンドラ地帯の描写だが、世界のどこでもありえるような気もする。日本だったら氷はないが砂埃はあるだろう。本書より少し土色な未来である。温暖湿潤な日本も予想せぬ気候変動により砂塵が吹き荒れる砂漠のような土地になることがあるかもしれない。本書は『デイアフタートゥモロー』のような環境災害のパニック映画に似ていると思う人もいるかもしれない。しかし、それよりも朽ち果ててしまっている。そんな中にも社会的な示唆が多くあるのが本書だ。反知性主義、全体主義、衆愚政治、人間の獣性など示唆は枚挙に暇はない。  本文前半でネガティブなことを書きすぎた。あぶり出されるのは人間の方だ。力強く茂る針葉樹林、まぬけでおどけているようなカリブー、主人公と伴走していく心強い馬など自然は変わらずにある。マーセル・セローは(日本の読者の皆さんへ、http://www.chuko.co.jp/tanko/2012/04/004364.html、中央公論新社、最終閲覧日二〇二〇・二・三)でもののあはれに触れ「現世の無常を感じとり、移りゆく季節の美と命のはかなさをとらえる感性は、まさしく僕が『極北』で描こうとしていたものだったのです。」いっている。人類の近未来を描きつつ、人間中心ではなく、自然の中のひとを描いているのである。近年はサステナブルや超高齢社会という言葉も古くなってきたが、文芸はもっと先を見ていかなくてはならないのである。そして現代における未来は鉄腕アトムやドラえもんではなく、『極北』のほうがしっくりきてしまっている。