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春の月は何色か 若月集(「かりん」二〇二〇・三)を読む

 新型コロナウィルスの影響で歌会やその他イベントが中止される中で、結社誌に向き合う時間は多くなった気がする。若月集は近い世代で構成され、私もご多分に漏れないのだが、同じ世代の歌のいまを読むことができる。今回は若月集のセルフプロデュースの一環としてブログの更新をしようと思う。みなさんぜひご贔屓に。   つくづくも泣き枯れていま東海の蟹を食ふ人さはやかすぎる 上條素山  上條作品は散々泣いたあとに蟹を食べる人がでてくる。文語のやわらかさと浮遊感がある歌で、相手の蟹を食う力に驚いているのである。その飄々としているところにわれが出ており、魅力の一つだ。石川啄木の歌を匂わせつつ、でもやっぱり違うかもみたいな本歌取りは独特である。   「様子がおかしかった」と語る住人の毛玉だらけの服も4K 岡方大輔  岡方作品はシニカルな目線が効いている。そういえば若月集にはシニカル・アイロニカルな歌は少ない。何か事件・事故が起きると各番組で無数に報道される。そして、顔を隠したひとがインタビューに応じる。岡方はそのひとの洋服の毛玉に注目するのである。そうした視点の外しと、毛玉を発見してしまうほどの画質の是非を詠っている。いくら画質が良くても毛玉を発見するほどしか役にたたず、事件の本質を見れていないとも言いたいのかもしれない。   思い出の柩のようなニュータウン置きっぱなしの傘のゆくえは 貝澤駿一  貝澤作品はニュータウンにみられる虚構のような存在感を歌っている。再開発に湧く熱気や、ベッドタウンと都心との人口集中、またバブル崩壊のインパクトに隠れた平成景気などの時代性をニュータウンから読み取れる。コンクリートでできたニュータウンは老朽化しつつも崩れず柩のように静かに、大地に横たわっているのである。置きっぱなしの傘は時代を超えて存在するものである。不特定多数の置きっぱなしの傘はニュータウンに住む様々な時代と空間の人のもので、またわれのものでもある。傘のゆくえはどこでもなくどこでもあるのかもしれない。   午後からは雪だったっけ髭剃りの振動の先にむかえる未来 郡司和斗  髭剃りの刃は高速で振動するためぶれてみえる。ここでは存在が危ういものとして髭剃りが登場する。そして、毎朝顎に当てるものである。毎日の展開がよくわからないなかで、天気予報か何かで午後から雪という情報が入ったことを思い出す。しかし、〈だ

題名を思い出せない映画 大野誠夫歌集『羈鳥歌』を読む

  クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり 大野誠夫『薔薇祭』  最初に出会った大野の歌はクリスマス・ツリーの歌だった。いわゆる戦後モダニズムの歌というくくりで、短歌史の評論で読んだのだと思うが、時代背景などまだわからず歌だけ読んでいても、戦後の混沌とした雰囲気や、クリスマスなのにさもしいさまが印象に残った。元来私もさもしさに親しみを覚える性格もあり、歌集を読まずとも大野の歌は好きだと思っていた。  大野の歌集はいまはなかなか出会う機会がない。今回読んだのは『羈鳥歌』というアンソロジーだ。少し横着なのだが、ざっと大野の歌を味わうことができた。なお便宜上、引用のときは抄出元を掲載し、「『羈鳥歌』所収」などの記載は省略する。   去りゆかむわれを黙《もだ》ふかくみつめゐし父なりしかば面影消えず 同『花筏』   何か言ひたき父なりしならむわれに向けし眉おもおもと曇りてありき  第六歌集の『花筏』は第一歌集の前の歌が収められているようで、どういう経緯かわからないが第〇歌集といってもいいだろう。父の老いに焦点が当てられている。父の老いや、父に対するわれの思いが歌集に通底する主題である。   海沿ひの茶房の子らは朝夕の船の汽笛に歎くともなし   混血の貧しき子らと語りつつ窃《ひそ》かに憤《いか》るそのちちははを   戦報に魂潰《たまく》えし日も遠くなり夜に入りて寡婦鯉を畳みぬ  また、戦後の貧しさや、多様な人種のひとがそのなかで生活している場面の歌もある。海沿いの茶房の歌は子どもが嘆くこともないといっている歌だが、茶房や汽船で場面を描くことで、港湾労働者や、いまのカフェとは異なりもっと乱雑な茶房の子どもだということを語っている。そして、その後の歌では混血の子で生活が厳しいことを描いている。場面を詳細に描写しながら、切り替わるところが映像的である。また、戦報の歌は戦争から解放され安心した一方で、夫を亡くし悲しみや不安も安心感以上にある母が鯉のぼりを畳む歌だ。具体的かつ映像的な場面を描くことで、戦後のそして、戦中の普遍的な母の思いを語ることができている。   激動に揺すらるる身にこゑひびく美しきものは失ふべからず  同『薔薇祭』   雪のうへに雪ふりつもる屋根つづき幼子は話す白い白い雨がふるね  『薔薇祭』になると大野に妻子ができ、平和への希求や家族への思いが

かりん一首鑑賞2020年3月号

  をんな酒ふけて幼魚の汁出でぬぬらりと堕つる冬の底ひに 馬場あき子「かりん」2020年3月号  「かりん」一首鑑賞三回目にして馬場先生の作品。馬場は北国の厳しい雪の夜に、酒を飲む場面がよく合う。東北にルーツがあるだけではなく、承知のように黒川能との関わりや、民俗学的な関心もあるからであろう。  引用歌も新潟の厳しい冬の歌である。をんな酒とわざわざ言うのは、男が騒いで酒を飲むのと違い、静かにしんと酒を飲んでいるのだろう。前後の歌を読むと幼魚の汁というのはつまみの幻魚汁のことで、幼魚と書くと幻魚とはまた違った意味が宿る。幻魚は日本海とりわけ新潟でよく食べられている深海魚で、体がゼラチン質に被われているらしい。深海魚なのでグロテスクなのだが、ゼラチン質の体というのが生々しく、そして幻魚から幼魚に言い換えたところで、より存在感が増している。その幼魚を食べているわれはまさに、山姥のような怪しさをもっている。そして冬の底ひに汁が堕つる様は、純粋さ、若さがデカダンスに堕ちてゆく比喩とも読める。  レトリックではなく、歌のテキスト外のところから、怪しいとも怖いとも表現の付きがたい抒情を幻魚汁から立ち上げるすごい歌だ。

霊界もきびしい ルドルフ・シュタイナー著『テオゾフィー 神智学』を読む

 自分より遠いものは影絵のように大きく見える。最近大きなものをもう一度信じたいと思えるようになってきた。そんなときに神智学の本書を手にとった。ウィキペディアによると音楽家のスクリャービンや詩人のイェイツも傾倒し、東洋思想への架け橋にもなったようだ。神智学はデジタル大辞泉によると「神秘的 直観 によって神の啓示にふれようとする信仰・思想。」とあるが、Wikipediaなどを読むと主義や、それぞれ定義にブレがあり、単一のテーゼはない。  本書ではまず、人間は三つの世界に住んでいるという話から始まる。一つ目は体で、体をとおして知覚することができる世界に属しているという。二つ目は魂である。快不快は人間の内面的な、魂的な生の作用で感情のなかで第二の世界を生み出す。そして、意志をとおして物質的な外界に影響を及ぼすのである。三つ目は霊である。本書で「思考の法則に従うことによって人間は、体をとおして属している秩序よりも、さらに高次の秩序に属することになります。このような高次の秩序こそ、霊的な秩序にほかなりません。」と簡潔に述べているが、精神分析学の超自我に近い概念のようだ。三つの世界は神秘的・スピリチュアルな感じというよりも、精神分析的な感覚に近い。魂は日常的な生活でもはたらいているので、本書では動物でもそなえているの考えられている。しかし、共感や反感から生じるあらゆるものから解き放たれた、真理を兼ね備えた魂を意思魂と呼び、一般的な魂のはたらきと区別している。意思魂は倫理学のカントの道徳論に近い概念と捉えていいと思う。このように、神智学は他の人文学分野で説明できそうな分野もあり、学際性がある。  魂のはたらきにより内部にある霊が反応するという構造がみられるが、霊は内部に籠っているものではない。物質界と同じように霊的世界には、人は霊人として存在し、霊的な皮膚(アストラル体による?)に包まれながら生活を送っている。そして、直感をとおして世界の霊的な内容を知覚する自立した霊存在になるというのだ。  霊的な構造においては精神分析学のような力動が体・魂・霊の間にみられる。しかし霊の存在においては輪廻転生のような作用もみられるのである。遺伝学的な祖先とのつながり以外に、生殖や遺伝とは異なる霊的なつながりがあることを説いている。祖先でなくても先行する人生の体験の成果が、その後受け継がれた生