青い回答 稲森宗太郎ノート
稲森宗太郎は一九〇一年に三重県で生まれ、一九三〇年に咽頭結核で没した歌人で、二十八年という短い生涯を送った。一九二六年に尾崎一雄、都筑省吾、窪田空穂をかこみ「槻の木」を創刊し、また、中谷孝雄、梶井基次郎と同人誌「青空」を創刊したのも特筆すべきことである。流通したのは遺歌集の『水枕』のみであり、歌を読んでいくと大正十三年、稲森が二十四歳のときの歌から始まっている。手にとってみると短い作歌期間で様々な試みをしていることがわかるが、その生涯の短さゆえか、『現代短歌大辞典』(三省堂)では、「生活的な抒情を基調としながらも、昭和初期の新感覚派や新興短歌に通じるようなモダンな完成がある。」という言及に留まっており、前後する歌人と比べると鑑賞される機会が少ない歌人でもある。しかしながら、その短い生涯のなかで多くのものを試み、自らのなかで昇華させてきた作品群は見逃せないものである。本文では作品をひとつひとつ取りあげながら鑑賞していくことで、稲森作品の魅力を少しでも掘り下げるとともに、稲森は短歌にどのように対峙していたかを考察したい。 おのづから木苺の花に目のゆきて朝よりだるき時となりたり たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる 畳にしおきてながむる鉢の罌子《けし》かそかにゆるむ人のあゆむに 大正十四年から昭和元年にかけての歌を引用した。それ以前の歌は稲森自身が没にしてしまったらしい。初期の歌ともいえる歌群は繊細な感覚をみてとれる。一首目は木苺の花への目線の動きから、だるきという率直な吐露に展開しており、感覚的な連鎖がみられる。たたきわりし茶碗の歌も同じ構造だが、怒りではなく、〈かなしきひとのまみを感ずる〉とつながるのが独特である。石川啄木『一握の砂』のなかの歌で〈怒《いか》る時/かならずひとつ鉢〈はち〉を割わり/九百九十九《くひやくくじふく》割りて死なまし〉というものがあるが、比較すると稲森の歌は割った茶碗もひとつでどこまでも静やかである。罌子の歌は人が歩くときの空気の移動や振動でゆるんでいくという捉えにくい変化を捉えている。この歌は特に研ぎ澄まされた感覚が生きている歌であろう。 茶碗と煙管ところがりて日のさせり衰へて這ふ冬の蠅一つ 読みさしし机の本にさせる月人の坐りて読みゐる如し せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩