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青い回答 稲森宗太郎ノート

 稲森宗太郎は一九〇一年に三重県で生まれ、一九三〇年に咽頭結核で没した歌人で、二十八年という短い生涯を送った。一九二六年に尾崎一雄、都筑省吾、窪田空穂をかこみ「槻の木」を創刊し、また、中谷孝雄、梶井基次郎と同人誌「青空」を創刊したのも特筆すべきことである。流通したのは遺歌集の『水枕』のみであり、歌を読んでいくと大正十三年、稲森が二十四歳のときの歌から始まっている。手にとってみると短い作歌期間で様々な試みをしていることがわかるが、その生涯の短さゆえか、『現代短歌大辞典』(三省堂)では、「生活的な抒情を基調としながらも、昭和初期の新感覚派や新興短歌に通じるようなモダンな完成がある。」という言及に留まっており、前後する歌人と比べると鑑賞される機会が少ない歌人でもある。しかしながら、その短い生涯のなかで多くのものを試み、自らのなかで昇華させてきた作品群は見逃せないものである。本文では作品をひとつひとつ取りあげながら鑑賞していくことで、稲森作品の魅力を少しでも掘り下げるとともに、稲森は短歌にどのように対峙していたかを考察したい。   おのづから木苺の花に目のゆきて朝よりだるき時となりたり   たたきわりし茶碗のかけら見つつ我れかなしきひとのまみを感ずる   畳にしおきてながむる鉢の罌子《けし》かそかにゆるむ人のあゆむに  大正十四年から昭和元年にかけての歌を引用した。それ以前の歌は稲森自身が没にしてしまったらしい。初期の歌ともいえる歌群は繊細な感覚をみてとれる。一首目は木苺の花への目線の動きから、だるきという率直な吐露に展開しており、感覚的な連鎖がみられる。たたきわりし茶碗の歌も同じ構造だが、怒りではなく、〈かなしきひとのまみを感ずる〉とつながるのが独特である。石川啄木『一握の砂』のなかの歌で〈怒《いか》る時/かならずひとつ鉢〈はち〉を割わり/九百九十九《くひやくくじふく》割りて死なまし〉というものがあるが、比較すると稲森の歌は割った茶碗もひとつでどこまでも静やかである。罌子の歌は人が歩くときの空気の移動や振動でゆるんでいくという捉えにくい変化を捉えている。この歌は特に研ぎ澄まされた感覚が生きている歌であろう。   茶碗と煙管ところがりて日のさせり衰へて這ふ冬の蠅一つ   読みさしし机の本にさせる月人の坐りて読みゐる如し   せち辛き世にからからと笑ひ生くる人には見せじわが痩

かりん一首鑑賞2020年4月

  サピエンス幼かりけり虹なども虫のたぐいとかんがえし頃 東山研司「かりん」2020年4月号  虹という題の連作に収録されている歌から引用した。東山は理知的な歌を多く詠んでいる。引用歌は虹を虫のたぐいと考えたことについて、幼いといいつつも作者自身もそれを発見したという複雑な構造になっている。作者は広大な虹をみたときに漢字に虫偏があることに気づき、それは大きなワームか、もしくは細かい色とりどりの虫が集まって成り立ってるのかなど連想していったのだろう。そして、古の人はそのようなことを考えて漢字を作ったのかもしれないと思い巡らせるのだ。二句目の幼かりけりは、幼いというと稚拙という意味も帯びてくるが、作者が連想した虹の成り立ちの寓話的な素朴さに共感したと読むこともできる。そう読むと古代ロマンも感じる歌である。短歌が表記文学になってだいぶ歴史があるが、引用歌のような文字のつくりから展開する歌は、口承文学おいては成り立たない歌である。もし口頭で聞いてもかなり難しい謎解きになってしまう。そんなことも考えながら読んだ。

文学でも遺書でもない「散歩者の日記」あとがき

 一年分の日記を「散歩者の日記」という題で公開した。日記はときにスマートフォンで撮る写真よりも、そして歌よりも雄弁なときがある。私の日記は全く程遠いが、日記文学というジャンルがあるのもうなずける。日記は公開するか否か迷うものでもある。啄木のローマ字日記は非公開前提で書かれていたが、岩波文庫になってしまったという失敗例でもある。内面を綴った日記は非公開のほうが、プライバシーにおいてもよいだろう。  しかし、公開するメリットもある。一つは読んでくれる奇特なひとがいるかもしれないということ。そして、明日予期せぬ事故で日記の主が亡くなってしまっても、遺されたひとに遺影以上に、自己の断片を残すことができるということだ。押し付けがましいが、親しい人にとっては多少の慰みになるし、こちらも少し安心するのだ。今年度も日記は変わらずつけているのだが、公開するかどうかは来年の自分に任せるとしよう。

息をする歌 折口信夫著「語り部と叙事詩と」を読む

 万葉集を捲っていると、額田王の歌とされるとか、山上憶良の類聚歌林によると○○の歌として収められているなどと、転載や文章化されたときに若干超訳されているのではないかと思われる記述がある。エジプト神話やギルガメッシュ叙事詩は現代に生きるひとが読むまでに、解読の苦労があったことを鑑みると、叙事詩がここまで受け継がれてきたこと自体が貴重であり、また多くの学者や文学者が読み、語ることでその都度不死鳥のごとく新陳代謝が起こしていたことがわかる。そんなことを考えながら、本文では折口信夫著「語り部と叙事詩と」(『折口信夫全集4』所収、中央公論社、一九九五・五)を読んでいく。  本書で折口は語り部と叙事詩の存在を主張してきたという宣言から始まる。世界各国に語り部と叙事詩は存在することから、日本においても例外ではないと思う。そして、世界の叙事詩や神話は今日も多くのオマージュやパロディが存在する。日本における語り部と叙事詩の存在については、あまり反論の余地はないと思うが、折口いわく反論も多々あったらしい。  叙事詩の発生は土地の精霊の名乗りを促し脅かす呪言の延長として発展し、眷属や地霊の来歴などが加わり長さが増し神社に祀られていったというのである。それに使える神人が語り継ぐうちに、無意識に他の叙事詩を取り込んだり、言語学的な変化が生じて、村の興亡による語彙の変化も手伝って、生理的・社会的な変化を遂げていった。言語心理学の話になるが、「展開過程・文章産出における表象の構築モデル」(山川真由・藤木大介、「認知科学」二十一、二〇一四)というものがある。単語や文節を読み、文章レベルで認知を構成していくことをミクロ構造といい、自らの既有知識と統合して文章を理解していくさまを状況モデルという。語り部による叙事詩の伝承も同様な認知モデルを経て、何代にもわたり語り継がれてきたことと考えられる。その手の分析は国文学者や心理学者に任せるとして、読者であり短歌実作者である私は語り部の認知的作用に便乗して、その叙事詩をさらに読んでいき、新たな魅力を発見したり付加していくことが仕事のように思う。  エッセイなのかもしれないし、実作なのかもしれない。自分がやる必要はないし、誰に言いつけられたものでもない。そうした、無意味性も私の文学への態度でもある。語り部のなかにもそういうひとが一人くらいはいたのではないだろうか

散歩者の日記2020年3月

某日  忙しくて日記をしばらくつけられなかった。最近ほうじ茶にハマっている。一保堂のほうじ茶を手始めに飲む。紅茶もいいけど、ほうじ茶の香ばしさと、火の感じ、茶葉が残っている感じがいい。レ・ミゼラブルはまだ終わらない。 某日  休日前。文明堂のカステラ巻きなるものを買う。明日の楽しみ。 某日  半日寝てしまう。が、意外とスムーズに原稿を仕上げることができるのでレ・ミゼラブルの続きを読む。 某日  休日。レ・ミゼラブル読了。マリユスが出てきてもやはりジャン・ヴァルジャンが主役だ。彼の多くの苦悩を読むための本なのかもしれない。もちろんコゼットとマリユスのロマンスも美しい青春の一幕。  山本周五郎の『五辧の椿』を読み始める。レミゼに比べると分量が少ないので、気軽に手が向く。日本的な抒情ってあるなぁと思う。  かりん一首評も書かなければ。 某日  チキンラーメン担々麺みたいなものを食べた。油麺で湯切りが必要なのだが、そのお湯がチキンスープになる仕掛けがある。塩分はなかなかだろうが、2度美味しいところが開発者の気概を感じる。  ダウ平均株価がどんどん落ちている。買い時なのだろうが、積立口座は増額できないようだ。あくまでこつこつ積立ることにする。 某日  ビギナーズクラシック万葉集を読み始める。まだ勉強しはじめだけど、古今和歌集より韻律がゴツゴツしてるかな。もうすこしで岩波文庫の万葉集が届く。きほんのきを押さえたい。 某日  今日は疲労で本が読めない。仕事は好調だったが。体力がほしい。 某日  万葉集より古今和歌集が先に届く。書店注文よりも圧倒的にアマゾンの早さと手軽さが勝っている。書店がアマゾンに営業的に負けているのは心苦しいのだが、ここまで普及する前に、対抗策がなかったのかなと今更ながら考える。 某日  イーリアスを読み始める。少し読み進めにくいが英雄たちがかっこいい。ギルガメシュ叙事詩もKindleにダウンロードする。fgoは楽しそうで何回もダウンロードして、しかし読書の妨げになるのでアンインストールし続けていた。しばらく神話や叙事詩を読むことで欲求を解消することになると思う。 某日  万葉集が本屋に届く。五冊は多いので、そのうち原文の上下巻で読めるようになるといいなと思う。イーリアス読了後に万葉集を読みはじめよう。ギルガメシュ叙事詩と並行になるかな。バガヴァットギータも読

散歩者の日記2020年2月

某日  ツイッターで結社が話題になっている。そのせいか歌集批評会的なパネルで、編集委員の皆様に針のむしろにされる夢をみる。いつも大変優しくしていただいているのだが。トワイニングのレディグレイを飲む大変美味しい。このままフレーバーティーの沼にハマってしまうのか?!  『極北』を読み始める。大変面白い。これはブログでまとめるか。 某日  『極北』読了。すばらしい。  トワイニングのプリンス・オブ・ウェールズも素晴らしい。スモーキーさはメルローズのプリンセスブレンドにもみられたが、日東紅茶のデイリーパックには微塵も感じられない味わいだ。  そういえば、いわゆるニューウェーブにほとんど触れていないわたしは、コロニアム的な目線でみられると未開のひとということになるのか。  最近自分が目指すべき課題が見えてきた。世界観を作るということだ。いい歌や新しい発想、テーマなどは常々考えてきたがあまり世界観については考えてきてなかった。 某日  月詠投函。 某日  中野駅のホームでいつか忘れたが、男はもはやおどけるしかないみたいなこと言ったことがあるんだけど、男じゃなくて私なのかもなぁと思った。  大岡信『日本の詩歌』を読む。紛いなりにも短歌をやっているので、ちんぷんかんぷんとまではいかないが、古典やらなきゃなあと感じさせられる。来年の目標にしようか。また、池澤夏樹の解説もいい。こういう教養は得難いが憧れる。  最近、自分の短歌の作品の座標を考える。資質的にポエジーはない、揺るがすほどの革新性もない、言葉のセンスもない。そうなってくるとヒューマンの部分が残された要素な気がする。ユーモア、ユマニテ、クリティカルさとかそのあたりか。歌は今日は作らなかったが、モチベーションは湧いてきた。 某日  5月のかりんの特集の評論・エッセイ・作品が揃ってきた。評論は概ね完成、エッセイは見直し程度、作品はギリギリまで推敲。  新たな歌作もできた。 某日  来年度の診療報酬改定についてつらつらみる。400床以上だったりDPCの病院の影響が大きいようだ。制度が強いるノブレスオブリージュ。  かりん勉強会用に去年の角川短歌賞受賞作を読み始める。いろいろ考えさせられる。自分が勉強会で発表するときはノートとして、内容をブログ公開するのだが悩む。 某日  昨日は家でついていたマツコ・デラックスの番組で東京芸大が出てい

散歩者の日記2020年1月

某日   雲よりも太陽よりも偉いのだ「ねずみの嫁入り」小さなたつき 題ねずみ  椿屋で歌詠み初めとブログの更新をする。平出修『二黒の巳』を読む。『畜生道』でもそうだが、お茶屋遊びが題材の小説が多いのか。甲賀三郎『琥珀のパイプ』を読む。ミステリーは面白い。探偵と怪人が同一人物になっているのは斬新。 某日  月詠と短歌研究詠草を投函。投稿欄って結社に入ってどこか気持ちが遠のいていたのだけど、短歌研究はとってもらえると何首か載るので、投稿形式で発表作品を増やすこともできるなと考えていたのだった。 某日  徳田秋声『仮装人物』を読み始める。自伝的小説らしい。徳田秋声は風景や心理の描写が好きなのと、陰湿な感じが好きで、自らの歌にも取り入れたいと思っているのだが、ずっと読んでるとジメッとしすぎる感じもして、読了したら別の路線でまた読書しようと思う。  中学の友人とビリヤードをする。久しぶりでなかなか厚みや捻りがうまく行かない。夕食は土風炉に行く。鳥飼という米焼酎がなかなか美味。その後カラオケにいくがこれまた久しぶり。遊びという遊びは久しぶりだ。いい悪友をもった。 某日  『仮装人物』を読みすすめる。長いからしばらく終わらない。原稿もだいぶはかどった。NHKのニューイヤーオペラコンサートを聴いた。ファウストはグレートヘンにファウストが宝石をあげて口説いた場面の、「宝石の歌」がよかった。「愛の妙薬」は懐かしい。思い出深い作品。 某日  コンビニで買った年賀はがきが安い。68円だ。他のところは100円するのに。アッサムティーを職場で飲む。やはりポプリのような香りがする。そのあとセイロンを飲んだが、柑橘感が以前ほど感じない。少し舌がアッサムで麻痺したか。  渡辺温『アンドロギュノスの裔』読了。女優に恋い焦がれた下級将校が、水商売をしている女に騙されて、最後に帽子工の娘と結婚するのを戯画的に描いている。誰もが収まるところに収まっている。歌も数首作った。やはり小説を読むと歌を作れる気がする。文学的気分が高まるのだろうか。ある作家論のために歌集再読。また以前読んだときと印象が違う。  BSで藤原定家の番組をしていて、ちょうどつけたときいとうせいこうが「当時の和歌はいまみたいに手慰みでやってるわけじゃなく、」って言ってた。どういうことだろう。 某日  昨年の日記は読書と葛藤がテーマであまり言及

散歩者の日記2019年12月

某日  いろいろ入用なので蟄居倹約する。明後日も休みだが同じく引きこもる予定。『戦闘妖精雪風』を読了して、いい小説だなと思った。短歌の自己効力感は低いままだが、かりんの月詠を書いてるときに、そんな悪くないんだよなぁと自分で思ったりもする。 某日  ティファニーへ行く。アクセサリー売り場の奥の奥にあるので、ラスボスみたいな緊張感がある。アクセサリーは遠い世界で、壁を感じていたのだが、アクセサリーもやはり文化なのだよなぁと思う。カルティエ展も行ってもよかったなぁ。  かりんの原稿をすすめる。エッセイも書く。そこそこ筆が進んだ一日だった。  久生十蘭『肌色の月』、『金狼』読了。どちらも浮かばれない。 某日  休み明けの出勤。電車で隣に座った人が強い尿臭を発している。歳はとっておらず動きも悪くない。仕事で会ったら気になるのだが。 某日  オーボンヴュータンというフランス菓子屋のベラヴェッカというシュトーレンに似た菓子を食べる。無花果やナッツ、干しぶどうや八角などドライフルーツとスパイスが、洋酒と砂糖で固められており、陶酔するようなスパイシーさがある。なかなかの高級品らしい。いままで食べた菓子の中で間違いなく3本の指にはいる美味さ。合わせる飲み物は紅茶だと香りが相殺するし、コーヒーって感じでもないし、ホットミルクだと味がぼける。白湯で香りを蒸気とともに鼻腔に充満させるのがいいだろう。 某日  ホーム・アローン3がテレビで流れており懐かしさで魅入ってしまう。中島義道著『カントの「悪」論』読了。カントの倫理学のわかりやすい解説書。 某日  閻志著/竹内新訳『少年の詩』読了。商人になった詩人はいつまでもこころの中に故郷を持っている。 某日  残業が長かった。明日が休みなのでまぁいいか。12月の日記が少ない。あまりイベントが多くないのか。 某日  かりんの前月鑑賞の締切日。休日なので99.9%ほど朝完成させる。夜もう一度見直してメールで送ろう。  久しぶりに床屋に行く。顔剃りやマッサージなど懐かしい。髪型も少し古風ながらさっぱりした。 某日  尾崎紅葉『金色夜叉』を読み始める。貫一が京を熱海で足蹴りするシーンはたしかにハイライトだ。月に照らされて二人が墨のようや、燃えるような目で睨むなど描写に優れており、雅文体も慣れてくるとすらすら読める。貫一が京を糾弾するところもなかなか熱が入って

散歩者の日記2019年11月

某日  今日は亡き弟の誕生日だ。また、この日は短歌でお世話なっている方の誕生日でもある。不思議なめぐり合わせだなぁと毎年思う。そんなことと仕事は関係なく今日も遅い。ケーキ屋になんとか滑り込んで買うことができたので及第点な一日。 某日  3連休一日目。出光美術館で「名勝八景 憧れの山水画」を見に行く。中国西湖から吉野の桜・龍田の紅葉、琵琶湖など幅広い山水画のコレクションが公開されている。  さまざまな景勝地の美しき情景を山水画の中で想像し、そこに自らが遊ぶ様子を妄想する鑑賞の仕方を、中国では「臥遊(がゆう)」と呼びました。文字通り、寝ながらにして山水に遊ぶ、という意味です。つまり、山水画を愛でること自体が、部屋にいながらにして行える旅そのものなのです。(出光美術館ホームページ、 http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/present/、二〇一九・十一・ニ最終閲覧日 ) とあり、旅行してきた。山水画は絵から引き込まれるような迫力があり、その過程で作家の憧れや、遁世の気分が加わって閲覧者を絵の中に引き込んでいく。芭蕉や蕪村などの文人も愛でたであろう絵画を改めて見つめると歌がうまくなる気がする。絵葉書を買うのは恒例で、地味にコレクションしている。  最近高村光太郎が気になる。 某日  三枝昴之歌集『遅速あり』のブログを書いている。平出修の歌って知らないなと思いグーグルで調べたらなかなかいい。全集第一巻をポチる。大逆事件については詳しくなりそうだ。 某日  祖父から文学において学ぶことはあまりないが、死ぬまで書かなければいけないということ勉強になる。野球とバラエティしか観ない晩年は詩人とはいえないでしょ。 とツイッターでつぶやいた。急に言いたくなったのだが、おそらく壮年期の歌人の歌集をよく読んでいるからだろう。出光美術館「名勝八景 憧れの山水画」の連作が十首できた。ある程度咀嚼できて歌になったということか。また美術館に行きたい。 某日  仕事で久しぶりにアウトリーチした。いつもバタバタと調整事項だったり、対面でのケースワークが多いので新鮮だった。柳宗悦『民芸四十年』がなかなか進まない。しかし読んでいて銅鍋が欲しくなってきた。「美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。美術は偉大であ

散歩者の日記2019年10月

某日  日記も半分を過ぎたことになる。来年はどうしようかしら。  杉山二郎著『木下杢太郎 ユマニテの系譜』を読了。ユマニテの獲得に焦点をおかれているが、柳田や鴎外だけでなく、中国からフランスまで東西のユマニテを獲得しようとした杢太郎の精神史を追うことができた。自分の読書や文化に対する態度もユマニテ的なところもあるのかもしれない。尤も杢太郎や鴎外のようにはいかないが。 某日  『感傷ストーブ』のパネリスト選定に難航している。自分の第一歌集の批評会はカフェで、5人くらいで輪読する感じでいいなぁ。  勉強会にむけて『あさげゆふげ』を読む。ブログで一度取り上げたがまだまだ言及できそうだ。角川の特集と、かりんの40周年記念号あたりと、『あかゑあをゑ』あたりまで遡って読んでみようかなどと考えている。かりん力作賞の評もあるし、結構油断ならない状況である。とりあえず月詠と北海道短歌会掲載予定の歌を出したので少しずつタスク消化はしているのだが。  「かりん」が届く。最近、良くも悪くも安定してきている気がして危機感を覚える。同期と並べると地味でぱっとしない立ち位置が安定なのだから、もうひと段階展開がほしいところ。 某日  昨日は徳田秋声の『あらくれ』をちょっと読んで、疲れていたからスラブ行進曲を流しながら横になっていたら眠ってしまっていた。短歌はあまりできず。やることは盛り沢山なのだが体力が追いついていない。明後日は休みなので勉強会関係を進められればいいなぁ。  来年から日記はそこそこにして、作品7首の画像と、エッセーを打ち込んで毎月ブログに掲載するのもいいかもしれないと思っている。日記も日々の記録ではあるので捨てがたいが、エッセイで触れていくといいか、まだ模索中。 某日  杉山二郎著『木下杢太郎 ユマニテの系譜』を読んでしばらく経って、鷗外美学は憧れるところではあるんだけど、自分の根はそれより自然主義的な黴臭さにある気がしてくる。 某日  徳田秋声『あらくれ』読了。自然主義文学の印象が強いからか、秋声は嫌いという話を歌会で聞く。とくに教養のある近代文学を読んできた年齢の女性に。『黴』や『爛』はたしかにそんな感じだ。でもダメ男と一緒にいる女もダメで、というかみんなダメでそれなりに生きているのだ。そのダメさにお互い凭れている世界に、ある対人関係の究極さを感じる。

散歩者の日記2019年9月

某日  身内が救急搬送されて、自分の今までの人生を思い返している。不可抗力もあるとはいえいろいろな不幸を被ってきた。いたずらに病院のラウンジにいてもしょうがないので、残り後少しの『藤村詩抄』を読んでいた。ちょうど自分に、詩が向いてくるというのだろうか、印象に残った詩が最後にあった。よりによって最後にである。   縫ひかへせ  (略) 縫ひかへせ縫ひかへせ 捨てよ昔の夢の垢《あか》 やめよ甲斐なき物思 濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな 縫ひかへせ縫ひかへせ 腐れて何の袖かある 勞《つか》れて何の道かある 濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな 縫ひかへせ縫ひかへせ 薄き羽袖の蝉すらも 歌うて殼を出づる世に 濯すゝげよさらば嘆かずもがな 縫ひかへせ縫ひかへせ 君がなげきは古《ふ》りたりや とく新しき世に歸れ 濯《すゝ》げよさらば嘆かずもがな  水に流すより、縫いかえしたり、洗い落としたりしたほうが感覚的には合っている。嫌なことは水洗トイレのように流すのではなく、ざぶざぶと苦労しなければ消えない。《縫ひかへせ》のリフレインがエールのようだ。 某日  今日ははじめて献血をした。豪雨災害で血液が足りないらしい。豪雨災害は超急性期というより、急性期患者のほうが多いという話を研修で聞いたことがあるが、罹災をきっかけに状態が悪化し輸血を要することが多くなったなどだろうか。四百ミリリットル採取するとのことでペットボトル一本弱という量を考え緊張したが、まぁなんとか日記を書く程度には元気がでた。なお、仕事帰りに惣菜屋さんでレバーカツを買った。  『源氏物語』早蕨読了。総角が山だったので、その帖を受けての帖といった感じ。薫は素直で、総角の君をまだ想っているのだなぁといった感じ。今月の月詠も原稿に書いた。『ラヴェンダーの翳り』の印象批評をブログに書いた。まだ下書きだが、明日推敲して問題なければアップロードしようと思う。 某日  『源氏物語』宿り木は途中まで読んだ。この帖もなかなか展開がある。中の君に対する態度をみていると薫がいまいち好きになれない。まだ源氏のほうが徹底していてよかった気がする。尤も自分自身はと考えると薫的なところがあるのを否定できず(美しさはないが)、薫への若干の反発心をとおして思い知らされた。かりんに掲載していた小文をブログにもアップロードした。自分もアクセスしやすくなるし、かり

散歩者の日記2019年8月

某日  午前中は軽く原稿をして朝寝。暑さで何度も目が覚める。昼は地元の和食屋で穴子せいろを食べる。うなぎよりあっさりしていてうまい。うなぎは胃を選ぶのである。わが地元所沢を改めて見回すと再開発のなかで、航空公園、八国山方面と森林地帯もみえて、都内のベッドタウンに比べると緑が多い。もっと地元を詠んでいきたい、そんな気がした。あんみつも食べた。寒天の歯ごたえと風味が他のあんみつよりも良い気がした。  大賀祐樹『希望の思想 プラグマティズム入門』読了。ジェイムズが大きな仕事をしたことや、功利主義とプラグマティズムは同じという誤解を解くきっかけになった。ローティが暗喩に関していい暗喩と悪い暗喩と分けている論が面白かった。いい暗喩は聴衆が躓くような暗喩である。大人は諦めた子供という暗喩があったとするとそれは直ぐに腑に落ちない。しかし躓くことでじわじわと影響を及ぼすのである。なお、彼は豚だという含意のないものが悪い暗喩らしい。またプラグマティズムは多元主義や多元的な宇宙があるという言説があるが、ローティは穏当な多元主義を提唱しており、多元的な価値観が穏当に交わり、上手くやっていくところにポストモダニズムとの差異がある。ポストモダニズムは交わらないのである。古典的プラグマティズムもネオプラグマティズムも、いわゆるお互い上手くやっていくという調和の側面がある。ソーシャルワークの相談援助技術で課題中心アプローチという理論があるが、これもまさにクライアントと話しながら問題点を抽出していき、上手くやっていく(暫定的な解決)ことであり、まさにプラグマティズムだ。  母親とジョリーパスタを食べに行く。母もわたしも歳をとった。何ができるだろう。晩に『亀のピカソ』の印象批評を書く。 某日  仕事はほどほどだった。ドトールで歌集を読みその後帰る。寝違えたのか首から肩が痛い。消炎鎮痛剤を塗る。『源氏物語』梅が枝読了。 某日  仕事はそこそこ。坂井修一歌集『古酒騒乱』読了。なんどか途切れ途切れで読了したので何回か再読したい。 某日  『フェルナンド・ペソア短編集 アナーキストの銀行家』読了。知る人ぞ知る作家らしい。「独特な晩餐会」はある男の静かな狂気が爆発し、周りの人々にも感染してしまうという物語。「アナーキストの銀行家」はアナーキストと金融(資本)についての哲学めいた小説で、アナー

散歩者の日記2019年7月

某日  菊水亭という所沢のホテルと、ゴルフ場と、食事処が合わさったようなところに、母と昼食を食べに行った。曇っていて狭山湖の湖畔は霧がかっていたが、水鳥が体重そうに飛んでいたりと風情がある。菊水亭は中華かメインで、卵焼きの黒酢あんかけや、牛肉のオイスター炒めなど美味しく楽しんだ。  定期預金に振込もうと銀行に行ったところ、免許証を紛失していることがわかった。コンビニで免許証をコピーしたあたりでなくしたのだろう。いくつかコンビニにたずねて、警察にも行ったがだめだった。来週大宮で再交付を受けるしかない。  『源氏物語』玉鬘読了。夕顔の関係者はそういえばどこかに落ちのびて行ったが、九州だったかと思いつつ読む。田舎ざむらいが前半は出てきて、滑稽だ。山崎方代についての散文は無事入稿。 某日  かりんの月詠をまとめているときに、少し質にバラツキがあることに気づく。3割くらい推敲や差し替えをして、まとめる。そんなことをしているうちにいい時間になってしまう。散文の推敲もしたかったし、読書もしたかったが残念。明日は挽回したい。 某日  仕事ははかどった。定期預金は無事開設。まずは一年で開設してみる。育ちますように。投資信託はやはり賛否両論あり、否のほうが手堅く感じる。  斎藤茂吉歌集を読んだが、ある程度お腹いっぱいになってきた。『光のアラベスク』書評を推敲したが、徐々に形になってきた感じだ。紙に印字して赤入れしていた。明日は赤字を原稿に反映させて、全体をディスプレイ上で確かめる。微調整してほぼ完成とするか、もう少し寝かせるか。 某日  『源氏物語』胡蝶読了。庭で唐風の舟を浮かべる様や、築山の美しさや吹奏楽の描写が豊かだ。源氏は玉鬘にアプローチしたが、かなり違和感がある。当時の感覚のある玉鬘でさえ違和感を覚えていたのだから。 某日  和辻哲郎『地異印象記』読了。関東大震災の状況を淡々と書いている。郊外生活者で、まだ情報網が発達していない時代の和辻がどのように都内の被害のことを捉えていたかがわかる。また、地盤もそこここで違うらしく、噂話と被害状況で、どこは地盤が固いらしいなど書かれている。放火の誤報も関東大震災の汚点として語り継がれているが、なぜ信じてしまったかが本書で一番いいたいことだったのだろう。   鼠《ねずみ》の巣《す》片づけながらいふこゑは「ああそれなのにそれなのにねえ」 斎藤

散歩者の日記2019年6月

某日  会議が占める一日だったが、会議は民俗的営為と考えると面白い。仕事のあとは都内まで足を伸ばし、生業関係の昔の知人と新宿で食事をした。飲み会では大抵聞き役に徹するか、日々の生活を戯画化して話すことに終始する。コミュニケーションとしても詩でも戯画化は有用だと改めて思った。読書は電車で読む歌集のみだが、少し歌が作れたから上々か。帰りの電車でロックに語っている人がいたが、酒と音楽の日々という感じだった。そう考えると下戸で地味に生きている私はロックとは程遠い存在だ。クラシックでもジャズでもない。無音?。今月は飲み会が多そうだ。鶴亀鶴亀。 某日  今日は再生紙の日だ。不要な紙や冊子をまとめて出す。軽く掃除機がけをして、歌集を読んで、ネットバンクの定期預金を開設した。  東村山の北山公園で菖蒲祭りに行く。紫だけではなく、白、グレーがかった水色、黄色など様々な品種がある。湿地の中にすっと咲く姿が美しい。屋台も何店舗が出ていて、東村山という名の地酒や、シェモアという洋菓子屋も出ていて市を挙げての文化事業だ。菖蒲はドライフラワーにはできなさそうだ。薔薇とかでドライフラワーを作りたい。  夜にうとうとしながら水平思考について調べていた。バンクシーも利用しているというが、水平思考は短歌的だと思った。ラップトップトレイがほしいと思ったが、百均で自作できる気がする。クッションに大きめのクリップボードをくくりつければ、工具不要で作れると思う。早速明日作成したい。 某日  仕事は相変わらず慌ただしい。業務効率も悪いと思うが……。今日はラップトップトレイ作成に向けての物資調達と、明日の休みに備えての休日ムードの醸成が課題だ。 某日  かりん勉強会の資料づくりと、庭木の剪定をする。かりん勉強会の資料は夜にまでなだれ込んだが、7割完成。明日仕上げよう。昼はぎょうざの満州でナスの味噌炒め定食を食べ、その後近くの自販機で冷えた甘酒を飲む。至福のひとときだ。洋服が中華の匂いになるなか、北海道行きの飛行機チケットを予約する。往復3万円で意外と高い。格安航空券などもあるようだが、ロビーが遠いなどあるようで、ANAにする。JALはたしかパイロットが飲酒沙汰になって問題になっていたはずだ。  図書館で小池昌代詩集『雨男、山男、豆をひく男』を読む。私はジェンダーについてはノンポリなのだが、文芸

散歩者の日記2019年5月

2019年5月1日  昨日の短歌漬けの一日が夢のようだ。いやもしかすると夢なのかもしれない。令和元年最初の日だ。今月の「かりん」誌はあまりいい場所に歌が載っておらず悔しい気分。ネットの炎上の歌なのだが、微妙か。生業は連休中日ということでバタバタしている。平和を希求する者としては辛い一日。帰って歌集を読みとりあえず終わりとしたい。 某日  缶コーヒー片手に散歩するのが至福のひとときだ。躑躅を愛でつつ、躑躅に吸いつつ、春の空気とともにコーヒーのかすかな香りを楽しむ。カナブンがホバリングしている。カナブンが恐ろしいのは何も考えず、生命が迫ってくるところだ。私は接近してくる生命あるものが怖い。  今日は「能と狂言 人間国宝の競演 友枝昭世と山本東次郎の至芸」を新百合ヶ丘で鑑賞する。狂言は月見座頭、能は葵上、解説は馬場先生という豪華なラインナップだ。月見座頭は盲目の男が町人と月見酒をし、不条理に巻き込まれる話、葵上は六条御息所の生霊が葵上に憑く話だ。月見座頭の不条理さは馬場先生が、江戸に書かれているがモダンというように、芥川龍之介的な不条理さがあった。葵上は源氏物語の出典だが、馬場先生の解説で最後に般若のまま悟りを開き、般若は智慧という意味と仰っており興味深かった。般若の苦悩の表情のさきに悟りがあるのではというくだりがあり勉強になった。  その後、古谷さんと中武さんと加賀さんとお茶をしたりケーキを食べたりした。新百合ヶ丘に紅茶専門店があり華やかな香りに包まれながら芸の余韻を味わった。ちょうどこの時期に短歌界隈は少し議論があったが、甘味をつつきつつ、お茶を飲むのが文学だと思った。いや、ちょっと違うか。ただお茶してるだけだ。 某日  コメダ珈琲で「元祖ジェリコ」というコーヒーゼリーとアイスコーヒーにクリームが乗ったものを頼んだ。「旧約聖書が下敷きにある」などと私が言ったところ、ジェリー&コーヒーでジェリコではと教えてもらった。尤も私も旧約聖書は門外漢で、〈ジェリコ見しヘブロン見しとふりかへる「見し」はなにほども実り持たねど 坂井修一『青眼白眼』〉で知った。本歌集には旧約聖書のモチーフも散りばめられており、一度作者の思想を経由して、現代社会に歌が照射されるダイナミズムも魅力だろう。間接的に現代社会における神について触れているのかもしれない。 某日  小熊秀雄『飛ぶ橇』を読み始める。

散歩者の日記2019年4月

2019年4月1日  新元号「令和」が発表される。万葉集が出典ということもあり、友人何人かにどう思うか聞かれる。正直関心がないのだが、様々な見方ができるのだよみたいな意味深なことを言ってみる。いつか古典も勉強せねばと常々思っている。 某日  自宅の近くの観光牧場にいく。牛舎から出て何頭か牛が寝ているが、牛舎内の牛も寝ている。牛にとって休息こそが人生なのかもしれない。チーズがたくさん乗ったドライカレー、ジェラードを食べる。ミモレットやカチョカバロも売っておりワイン好きにはたまらない店だろう。 某日  エリックホッファーの日記を読んでいる。在野の社会哲学者で、港湾に積荷の上げ下ろしをしていた人物だ。労働者と思想家の二足のわらじを両立しており、思想というより、在り方において影響を受けた。鴎外や杢太郎より、じっと手を見る啄木に近い。 某日  職場の行事で余興をやることになっている。仕事終わりに練習をするのだが、その後執筆、校正、作品と向き合うなどするとハード。なんとか乗り切った。最大の敵は日々の消耗だなどと『ジャン・クリストフ』で言ってたなと思うなどした。 某日  通勤や終業後に木下杢太郎詩集を読んでいる。白秋や泣菫など、近代の象徴詩は少し前までは苦手に感じていたが、最近は読んでいて楽しい。短歌においてもリアリズムの更新がみられるという言説があったが、近代日本文学におけるサンボリズムに関しても一度再検討したほうがいいのかもしれない。 某日  久々の休日だ。午前中は寝ていることが多く、歌集をぱらぱら読むなどした。図書館から木下杢太郎関係の書籍の到着通知がきている。夕方からは中野サンプラザにて、佐山加寿子歌集『鈴さやさやと』、谷光順晏歌集『空とかうもり』の出版記念会。雨が降っていて気温も冬並み。普通なら寒いのは嫌なのだが、佐渡を舞台とした歌集を読む日は多少気温が低いほうがよい。中野サンプラザの一階のカフェのコーヒーはあまり香りがない。  〈「あの愚痴に角《つの》十本は生えてゐた」わが裏がはまで言ひあてし母 谷光順晏『空とかうもり』〉、〈潜きゆくわれに寄りくるもののけに美しきターン見せてやるなり 佐山加寿子『鈴さやさやと』〉出版記念会は批評会よりも寿ぐ傾向があるが、魅力を多角的に発掘できるので初参加ながら面白かった。皆さん歌を引用しつつ批評、鑑賞していたが