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箱庭日記2020年5月

某日  眠気と国文学の発生との戦い。眠気が勝つ。 某日  ゴールデンウィーク。時評を進める。月詠を出す。  たまごパンなる菓子が美味い。その晩中学の友達とリモート飲み会。 某日  Slack歌会。Slackなら我が家の環境でもいけそうだ。 某日  国文学の発生を読んでいると、自分の短歌がわからなくなってくる。あまり深く入り込みすぎると迷子になる気がするほど深い沼だ。とりあえず読み切ってしまって、万葉集をじっくり理解するというところをまずやろう。徐々に消化できるはず。  昨日から煎茶の茶葉を貰い物のものに変えたのだが、旨味が少ない。またいつものやつを買おうか、高いんだけどなぁ。 某日  国文学の発生読了。時評もほぼ完成。歌集の鑑賞文に着手。万葉集をまず読み通したあとに、国文学の発生の感想文を書きたい。 某日  だいぶ日記をサボってしまった。今日はwebexで歌会。  田中慎弥『共食い』を読み始める。揺さぶられた。  酒井潔『エロエロ草紙』を読む。これが発禁かぁという感じ。  エス強めの休日だったが、そっちを求めているわけではないんだよなぁ。 某日  ファミマのクリームを味わうクリームパンを食べる。美味しいけどパン屋のクリームパンはまだ超えていないな。 某日  母と山田うどんに行く。その帰りに一人で八幡宮を参拝して、直売所で絹さやを買って帰る。万葉集をまた読み始める。梅花の歌や貧窮問答歌、日本晩歌など有名な長歌に出会った。短歌研究新人賞の詠草をまとめる。 某日  万葉集は長い。よく大伴家持は編纂したな。 某日  煎茶に抹茶が混入しているものを飲むと混乱する。折角あられを食べているのに集中できない。 某日  待望の湯呑が到着。彫付というブランドで、陶芸家ではなく型をつくる職人さんの作。寿司屋にある魚編の漢字が敷き詰められている湯呑なのだが、書かれているのではなく彫り込まれているのだ。モダーンな佇まいで、やられてしまった。  万葉集が長い。茂吉はよく万葉秀歌を書いたものだ。 某日  天使にラブソングをを見る。ホーム・アローンもそうだけど何度見ても飽きない。  万葉集を読みつつ、ブログの記事も下書きする。時間が足りない。 某日  万葉集に慣れてきた気がする。  緑色になったことは喜ばしいが、太陽の塔を緑にする必然性を私は感じない。きっと高度な政治的・美学的な判断があるのだろう

天茶漬け

 所沢駅から5分ほど歩くと天ぷら屋椿という店がある。地元住民から愛されている天ぷら屋で、駅前の喧騒から離れているのにも関わらず、昼夜ともにほどよく繁盛している。手前にカウンター席があり奥に座敷があり、家具には詳しくないが両方とも、木目のテーブルにほどよく油の空気が馴染んでおり、老舗の感じがでている。  天丼は天丼・中丼・上天丼・やさい天丼とあるがいつも中丼を注文する。九八〇円と手頃な値段で、サラダとお新香、味噌汁がついてるくるので満足だ。蓮根や海老、烏賊が油で光るご飯の上に乗っているのだが、まさか油で揚げられるとは思わなかっただろう。そして、刺し身とまた違う美味しさをもつこともまた、食べられる側には知る余地がないのである。主人をみてると食材を天ぷら鍋にいれて、しばらくしたら引き上げるという作業の連続だが、自宅と出来がまったく違うのはまさしく専門家といったところだ。  北大路魯山人が天茶漬けについて書いており、余った天ぷらは、焙ってから飯の上に乗せて熱い茶をかけるといいらしい。そして美味い天ぷらのほど、天茶漬けは美味くなるらしい。魯山人の流儀で天茶漬けにありつく我儘を実行するには、自分で美味い天ぷらを作るしかあるまい。目玉焼きすらまともに作れぬわれには大きな宿題である。

声が聞こえた 馬場あき子連作「春はどこまで」(「短歌研究」二〇二〇年五月号)を読む

 「短歌研究」二〇二〇年五月号の「280歌人新作作品集」に所収されている馬場あき子連作「春はどこまで」を読むと、他二七九の連作へといざなう呼び水のように読める。   なはとびの大波小波つらなりて追はるるガゼル少女らの脚   鮫の歯のザクリと出でし海底にパトカー並ぶ麻生警察署   二時間ゐてもウォーター足してくれし店「風月」に孤を守りゐし夕べ  大縄跳びで少女らが輪のなかに入りまた出ていくところを、大波小波という景色と、そこに逃げ回るガゼルを想起する幻想的な歌だ。縄跳びという景色がそうした幻を得たときに、永続性も同時に得るような感覚を覚える。肉食獣や猟師に追われる儚いガゼルが無垢な少女に重ねられている。鮫の歯の歌も麻生警察署が一気に太古にさかのぼり、海底に沈む景色はどこか近未来のSF作品のようである。しかし鮫の歯という斡旋が太古ではなく、昭和くらいの雰囲気もありどこか懐かしさも感じる。風月の歌もウォーターという言い方が懐かしい感じがする。昭和モダンといえばいいのだろうか。風月はいまはなくなってしまい想像するしかないのだが、純喫茶の華やかさを感じる。そのなかで、若かりし馬場が本を読んでいる場面である。具体的な描写はないにも拘わらず、朝の連続テレビ小説のような映像喚起力がある。どの歌も現実の景に立脚しつつ、時間や空間を超えた幻想をつくりだしている。馬場のつくりだす心象風景がいくつも存在し、それぞれ独立しつつ、ダブるところもあり連作を成している。   雨やみて春の気配のただよへる朝なりしづかに眼《め》をひらきゆく   仕事せずパンデミック不安の春十日相撲見てをり なんといふこと  コロナ禍による緊急事態宣言下の連作なので外出の歌が少ないが、それゆえに冴える感覚もあるのであろう。雨やみての歌は韻律がやわらかだが鋭い感覚のある。上句は雨のやんだあとの湿気やにおいなど、視覚以外のことをいっているが、下句で<眼をひらきゆく>とつながる。このズレが眼は歌よみの眼であることを示唆している。パンデミックの歌は、テレワークの難しさのような時事的な意味や、そんな暢気でいいのかという自分自身への目線もある。結句の<なんといふこと>が面白い。会ったことがある読者なら馬場の声色で再生されるだろう。意味を言葉で尽くすよりも、ひとことでコロナ禍の閉塞感が少しユーモアで包み込まれ

かりん一首鑑賞2020年5月号その2

  図書館で借りたる本を読みながら妻が取り組む妊婦体操 熊谷 純  第一歌集『真夏のシアン』に登場した彼女が妻になり母になるという読者としても、勝手ながら心が動かされる歌だ。引用歌は同連作の<寒風のよぎる速さで売り切れてマスク売り場はがらがらになる>に象徴されるコロナ禍のなかの夫婦の姿だが、妻は生命力にあふれている。他にも新春とはいえ寒そうな気候の歌が連作に編まれているが、家庭内は温かそうだ。逝去した父の歌もあり、溶けていくパフェに抒情が仮託されており、どことなく輪郭が失われていく不安定さを感じたのだが、連作でみると凝っていたものが温かさで溶けだしたと読めなくもない。もしくはその両方なのかもしれないと思うようになってきた。さて再び引用歌に戻ろう。妊婦体操の本を読みながら、実践しているということだと思うが、全く別の本でもよい。図書館という道具立てがグローバルというよりローカル感がでており、妻とこの地で生きていくという気分が伝わってくる。誰かが文学は孤独な営みだとか言っていた気がするが、熊谷の作品を読むと文学は全く孤独ではないと思うのだ。

エキストリームスポーツ

 オリンピックの影響か地元を歩いていると、路地や駐車場でスケートボードをしている若者を目にすることが多くなった。まだ始めたばかりの人が多いようで、飛び上がる技のオーリーを練習している。基本かつ最初の難関がオーリーなのだ。スケートボードはエキストリームスポーツという括りもできて、町の難所を曲芸的に踏破するパルクールなどもその内だ。近年はけん玉もKENDAMAみたいにアメリカナイズドされてエキストリームスポーツというらしい。あと少し前に流行ったのがエキストリームアイロンだ。高山や空中でアイロンがけをするというスポーツ。チェスとボクシングを交互にする競技であるチェスボクシングをみたときくらい衝撃的だった。  そんなエキストリームな郊外を散歩するのもまたエキストリームだろう。例えば近所の庭に植えてある燕子花を通りすがりに愛でる。歩行の速度は落とさずあくまで自然にだ。野菜の直売所で目にも止まらぬ速さで絹さやを買う。誰もが見落とすような馬頭観音像に手を合わせる。ただ歩いているだけのように見えて、俊敏性や審美眼、持久力が問われるのである。また、目的地を持ってはいけない。なぜなら移動ではなくエキストリームスポーツなのだから。  散歩をしているときに短歌もいくつか浮かんでくる。残念ながらエキストリームとは言えない。地元やその自然を愛し、行く末を憂う手堅い歌ができ、スケートボードのオーリーのような躍動には程遠いのだ。

かりん一首鑑賞2020年5月号

  「雨乞ひの沼の大蛇は象を呑む」まことしやかな祖父の法螺好き 小松 芽  雨乞いの沼は各地にあるような気がする。龍神崇拝やそれに伴う水辺は、いにしえより日照りのときの心の支えだったことは容易に想像できる。そのような切実さは今日では一歩退き、民話や地域の言い伝えになっている。引用した歌も言い伝えを土台としている。しかし、象が登場するのは祖父のアレンジであろう。実際は象は言い伝えには登場せず、象を呑むほど大きいという、子供を納得させる比喩に使ったかもしれない。そこに祖父の人間性が出ており、われは親愛の情をもっているのである。  連作内に〈青垣の大蛇《をろち》が峰のその奥に眼窩のごとく深き湖あり〉とあり、ともに読むと引用歌により広がりがでてくる。ヤマタノオロチが川の反乱であるという説があるが、作中の大蛇も湖と関係していることから、水害に由来しているのかもしれない。  そしたら、祖父の法螺の象を呑むもあながち誇張とはいえない。

五月の空が包みこむ 富田睦子歌集『風と雲雀』を読む

 本歌集は日頃お世話になっている富田さんの第二歌集だ。批評会、方代忌などなど、他結社で一番お会いしている方かもしれない。人見知りな私を上手く場にまぜてくださったりお礼してもしたりない方である。閑話休題、早速作品を読んでいきたい。   瓦斯の火の青さすずしく湯を沸かし明日は師走となる部屋にいる   寝たふりを見破るところ眦《まなじり》に細くふたすじ皺よする子は  一首目は何気ない場面を切り取った歌だが、外の世界は暗く寒いく、内は湯を沸かす温かな生活がある対比となっている。青い火がすずしいというのは言い得て妙で、燃えるときの音も轟々とはいわず、ボーっと一定のホワイトノイズがして、わりとすずやかに燃えている。ゆえに外の静けさと調和し、歌全体で新年特有の厳かな・幽玄な感じを醸し出している。二首目は子が寝たふりをするときに、無理に目をつぶるので眦に皺がよってしまうことを発見する。一首目の雰囲気に加えて、家族全体に静謐な時間が流れている。北原白秋『邪宗門』の「秋のをはり」という詩があり、季節は違うが、ちょうど瓦斯の火の静謐さを表現しているので、本歌集を読んでいるときに想起した。一部引用する。 いろ冴《さ》えぬ室《むろ》にはあれど、 声《こゑ》たててほのかに燃《も》ゆる 瓦斯《がす》焜炉《こんろ》………《空そら》と、こころと、 硝子戸《がらすど》に鈍《に》ばむさびしさ。  この詩も季節は秋ではあるが、机の上に腐った林檎の青い香りをふりまきながら瓦斯焜炉は燃えている。無聊な室内に秋の陽は差し込んでいるのだが、瓦斯の火が静かに燃えているのである。本歌集の、瓦斯の火の歌となにか共通する気分を筆者は感じている。   抱えれば頬にざわざわ触れておりコープみらいの葉付き大根   ががんぼが開けて開けてと言うようにガラスを滑る 脆き脚見せ    家族詠はそのまま家族を詠ったものもあるが、暗喩の歌が特徴的でもある。大根の歌は、日常の買い物の場面で葉付き大根を手にとったときに葉が頬に触れる。その感触は子のようでもある。ふと子が幼かったときを思い出したのかもしれない。ががんぼの歌はもう少しわかりやすく擬人法を用いて詠われている。開けて開けての口語のリフレインに、ががんぼの少年性のようなものが感じられ、脆き脚というのが傷つきやすい・被害に合いやすい弱い存在感を表している。富田のツイートで以前悪天候の日

箱庭日記2020年4月

某日  かりんで昇欄していた。がんばらねば。 某日  文芸所沢が届く。きらびやかな人たちは総合誌へ掲載する機会が多いだろうが、私のような地味なものは公募欄がありがたいのである。歌集に向けて発表済みの歌を増やしたい。 某日  若月会でwebexを使って歌会をする。スマホでも意外といける。ZOOMはKindleでもできるようで、次はKindleでやるか。詠草はいろいろ評をいただいて推敲した。  月詠をつくる。今月からIBに昇欄し日置さんの元へ送る。最近もう少し自分の歌がよくなる気がしてる。次のステップのビジョンが朧ながら見えているときは上達する予兆である。剣道をしていたときも、自分が弱く感じるときに強くなったものだ。加速させて少しでもいい歌を増やしていきたい。  LINEで仕事の用事がくる。緊急でもないので平日に職場に電話してほしいものだ。 某日  月詠投函。今月から日置さんのもとへ。  万葉集は日本書紀とセットで読みたい感じだ。古代史がわからないと読めないところがある。古代史の軽い本は読んでいるので、まずは読み通そう。  銀河英雄伝説がNHKではじまる。とても面白い。毎週月曜が楽しみになった。 某日  投資額を増額した。一週間ほど遅かったか。  中城ふみ子賞を出すか迷っているが、この際歌をまとめてみようということで連作を編み始める。  covid19対策の緊急事態宣言が出された。 某日  緊急事態宣言初日ということで社会全体が混乱してる様子。  職場用で西友ブランドの紅茶を買ってみたが香りも少なくあまり美味しくない。家は狭山茶の和紅茶にしようと思っている。お茶屋さんが空いているといいのだが。 某日  医療業界は緊急事態宣言があっても出勤。GWはもうFXして過ごそうかと思っている。いい本がないものか。二日目にしてわかってきたが、西友の紅茶は香りの少ないセイロンということだろう。果実味はあるけど、香りが少ないことで物足りなさを感じるのだ。 某日  休日。家に引きこもる。停滞感を払拭すべく少し高い紅茶を買う。イングリッシュブレックファストは初めてだ。狭山茶紅茶で和紅茶デビューしたかったが店が空いていない。  先日の増額が功を奏した。コロナショックを一気に吹き飛ばす感じ。  昼はあまのやといううどん屋にする。つゆがちょっとピリ辛。  樋口一葉『たけくらべ』読了。内容は青春群像