投稿

6月, 2020の投稿を表示しています

小さな街の小さな物語 オー・ヘンリー『水車のある教会』を読む

 日本の夏は毎度のことながら不快指数が高い。いくら暑くても日中太陽に焼かれながらアイスを食べつつ散歩するのは最高なのだが、今年は新型コロナウィルスのためにマスクをつけているのでそんな風流に浸ることもままならない。人がまばらな道を歩くときにマスクを外すのだがそのときに、ぬるい風が吹いてくる。そのとき私は他県の移動を快く思われないこのご時世に、避暑を夢見るのである。  アメリカのどこにあるかはわからないがレイクランヅという土地があるという。名前に反して湖もないし、取り立てて観光名所もない。鉄道沿線の小さな村で、松林のなかにあるらしい。避暑にはもってこいだが、穴場らしくごく少数の学者や画家、学生がぼちぼちみえるという。日本でいうところの夏のスキーリゾートといったところか。そんなレイクランヅに水車小屋のような教会がある。そこに僧侶のような小麦屋のエイブラム・ストロングという男が年に数回訪れる。  レイクランドはフロリダ州に実在するが、高級そうな住宅街やミラー湖があることから、レイクランヅとは違う土地だと思われる。架空の小さな街のレイクランヅで、エイブラム・ストロングがヒューマにスティックに生きていくのだが、『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンをも彷彿させる生き様なのだ。最後はハッピーエンドなところが希望をもてる時代の作品であることを感じさせる。現実はどんでん返しもなく尻すぼみ的に終わるだろう。嗚呼無情である。本作品は短編小説なのでカフェでコーヒーとケーキを頼みながら読んだら、完食するうちに読み終わってしまう。仕事終わりに一服して、つかの間避暑をしつつ、心を温めるというのも悪くない。

少し高いところから街を眺めたい 「別冊 むさしいか」第一号を読む

 手の内におさまるかわいらしい冊子が届いた。そこには江古田を通過点とする若者の作品が詰まっているのだが、森見登美彦的な香りを感じるのは私の中の青春も回顧しつつ読んでしまうからかもしれない。そんな夢をみせてくれた「別冊 むさしいか」第一号の短歌を鑑賞していこうと思う。   改札で慌てる様が想い浮かぶ切符を栞にしたのを忘れて 木村渉吾   私へと君が用意した寝室みちばたの前方後円墳 透   水際を走り続けて捕まった白波さらう土踏まずの砂 夏目四季  木村作品は、読書好きなら割りと何でも栞にしてしまう習性を歌にしている。レシートやストローの包装紙なら問題はないが、切符は改札口で慌ててしまう。読書に没頭しているわれの人物像を察することができ、また思いではなく〈想い〉という動詞の採用から他者の存在も予感させることで小説の一場面のような歌である。透作品は句跨がりが上句下句にあり大胆な構成で、さらに〈みちばたの前方後円墳〉が寝室だという突飛な比喩が面白い。韻律においては定型で考えずにさっと読み下すといいのだろう。そして寝室やみちばたという卑近な言葉の斡旋が比喩の大胆さを緩和している。それにしても古墳を経由した両者の関係にあるものは何だろう。死や死を越えた古代的死生観であるかもしれない。永続的な青春というと「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」を想起する。無理やりな関連付けだと筆者も思いながらも、透作品とうる星やつらがつながってしまう磁場が青春なのかもしれないと思った。夏目作品は上句はよく映画やテレビCMでみる光景だ。上句は波ではなく、君に捕まったという読みもできる。下句が文学的な表現で、白波という斡旋や、土踏まずの砂という細かい描写や感覚が活きている。上句でよくみる風景を提示しつつ、結句で細かな感覚に迫るとよくみる風景のなかに臨場感がでてくる、そんな意図を感じる。   いつのまにみどりに透けててらてらと光をためるはつなつの街 中武萌   歌舞伎座の「辧松」弁当幕を閉じお魚さんの醤油入れが泣く 小橋龍人   白壁に脚をひろげるコガネムシ来る日も勇気のこと考える 原 達吉  中武作品は街全体を見渡したときの歌だ。街は当然さまざまな色があるが初夏の陽気が透明感のある緑色を与えているという。てらてらのオノマトペが面白く、照る・輝るという意味もあるだろうし、琉

じわじわ感じる かりん集(「かりん」二〇二〇・六)を読む

 コロナ禍により結社誌の発行においても、在宅で校正をしたり、オンラインでやり取りしたりと試行錯誤や大変な苦労が埋め草で窺い知れる。編集に携わった方々のことを推察すると6月号は読んでいくにつれじわじわと感じるものがある。一方で、作業がリモート化していけば平日日中は生業がある筆者でもお手伝いできるなという期待もでてきた。閑話休題、本記事でかりん集のうちから何首か鑑賞してきたい。   空気のなかにさくらは揺れて空気からはみ出ぬようにひとは死にゆく 中山洋祐   どの公園も緑に覆われ生き物は密集しながらひかりを浴びる  中山作品は着想は新型コロナウィルスだと考えられるが、感染症や社会的影響のような俗っぽさを詩性でろ過しているようだ。空気のなかにの歌は、さくらやひとの取り巻く空気・空間を見ている。コロナ禍で普及した社会的距離のような概念や、心理学でいうパーソナルスペースとも違う。さくらやひと、その他ありとあらゆる生物が生きる霊的空間のことをいっている。どの公園もの歌も、三密を避けるという標語から着想を得ているが、それ以上に人類だけではなく、ありとあらゆる生き物は密集しているといっている。迎えすぎかもしれないが、新型コロナウィルスもその中に入っているのかもしれない。   石を拾う三人の影立たしむる雨後のひかりを均す潮風 辻 聡之   西の風風力3の快晴のラジオ短波がいまも聞こえる 檜垣実生  辻作品は海の連作になっている。初めてふぐ刺しを食べる歌や、クラゲが死を予感する歌もある。引用歌は生者が出てくるがどこか死の翳りもある歌である。三人は影として描かれており、両親・本人、本人・妻子、友人三人など様々な想定ができる。しかし、連作の構成や意図を察すると家族と考えるのが妥当だろう。両親・本人、本人・妻子どちらでも読めるという意図があるのかもしれない。石を拾うというのも、実用的な意味をもたない詩的な行動であり、下句の風景描写と相まって表現派の絵画のようでもある。あえて影にしたのは、世代ごとの生と死の連続性を示唆しているのかもしれない。檜垣は故郷の海を多く詠っている。そのなかでもラジオ短波というノスタルジックな題材を扱っている。<西の風風力3の快晴>というのはまさしく良い日の典型で、こう表現されると読者にも心地よい潮風が吹いてくるようだ。辻の潮風は表現派の画家の筆のタ

まぶたの機能 山川創作品「魚は睡眠する」(詩客)を読む

 死が文学のテーマとして最も輝いていたのは近代だろう。太宰治や萩原朔太郎、挙げていけばきりがないし、近代文士全員の名を列挙することになるかもしれない。  山川創「魚は睡眠する」(「詩客」、 http://shiika.sakura.ne.jp/triathlon/2020-05-30-20793.html、最終閲覧日二〇二〇年六月七日)にも死の気配がするが、近代文学における死とは違う趣がある。そして、よく現代における死で引き合いにされるゲーム的な死とも異なる。一言で言い表すよりも、作品を読みながら話すほうが簡単かもしれない 。  最後に生き返ったのは魚に出会うためだった  魚は直立したままこちらを覗き込んだ  ハッピーバースデー、と口が動いたとき  寓話的な魚が登場する。しかしうまく喋れないようである。一行目の主体は一度死に、生き返ったようだが、うまく喋れない魚は死者のメタファーなのかもしれない。   長い間待っててくれてありがとうこれから君に杭を打ち込む  吸血鬼の心臓に杭を打ち込むと死ぬことから、魚は吸血鬼同様不老不死のリビングデッドなのかもしれない。先に推測したとおり魚は死者のメタファーなのだ。  できるだけ大きな音で地面を蹴りつけながら転んだ  あらかじめ内蔵は凍らせてあったから  無事に起き上がることができた  ここでまた死のイメージが出てくる。今度は主体が死に曝される。内臓が凍っていなかったら起き上がれなかったのかもしれない。つまり死である。主体は死に得る存在ながら、今回は死から逃れることができた。〈できるだけ大きな音で地面を蹴りつけながら転んだ〉は積極的な行動であり、自死が未遂に終ったとも読める。タナトスとエロスのせめぎあいが示唆されている。   ものすごい数の魚が降ってきてここだけインターネットみたいだ  ここで一気に視点がマクロになる。前〜中盤まで書かれていた死についての詩想は、竜巻で巻き上げられたあとの魚の雨の記事という遠い存在になる。そして、その遠い存在が周りに多数あるということになる。魚はまぶたを持たないが、わたしたちも何かの目を開いたら、ものすごい数の魚のような死が見えてしまうかもしれない。