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かりん一首鑑賞2020年7月号

  さよならを言ってしまえば軽くなる泣きたる母をポッケに隠す 上石隆明  父母に育てられ、自立して時が経ち今度は父母を介護する。少子高齢化社会が到来し、介護保険法により介護が一般化してきたあたりから、介護や高齢な親の歌が詠われだしたように思う。引用歌はまさに高齢の母の歌である。手を握ったり、話したりとコミュニケーションをとっているが、どこかで切り上げなくてはならない。そんなときに「じゃあまたね」などといいながらさよならをするのだが、もっと話したそうな高齢の親をみつつ立ち去るのは心苦しいことだ。上石はそんなさびしさを〈軽くなる〉と表現した。もしかすると、お別れのときに軽く声をかけることで自らの心も軽くしようとしているのかもしれない。泣いている母をポッケに隠すという比喩は願望もある。さよならを言うことでさっと立ち去れたそのあっけなさを、ポケットに隠して見えなくしたとも読めるし、お別れがわれも辛くてポケットに隠したいほどだという歌とも読める。どちらにせよ後ろめたさが出ており、心に響く歌である。

雲のち晴れ 小島なお歌集『展開図』を読む

 『サリンジャーは死んでしまった』に続く第三歌集で待ちに待ったひとも多かっただろう。筆者にとっては同世代のトップランナーであり頼もしい存在だ。歌集を読み進めると繊細な感性や言語感覚ではまとめきれない、詩的境地があるように感じた。   日輪に展開図あると思いつつ段ボール潰し午後に入りゆく   航空機消息不明となりし夏タカアシガニの群《むれ》空を這う   湖のひかりを浴びた両腕で夜の宅配便を受け取る   縄文期ならばもうすぐ死ぬ齢 レシートを手にまるめて歩く  一首目は標題歌だ。比較的前半にある歌で、日常的な景から詩的飛躍を行っている歌である。下句から日輪に飛ぶのだが、〈日輪に〉からはじまるため、段ボールという具体的な景に至る前に日輪が展開されて、ダリやエッシャーを思わせる詩性を醸し出している。航空機の歌は航空機の通信が途絶えて、乗客ごと失踪した事件からきている。痛ましさとともに、不可解な気味悪さもある。それを空を這うタカアシガニの群で表現している。またタカアシガニは海底の屍を食べることからよりいっそう不気味な感じがする。内容的にエッジの効いた歌を引用したのだが、韻律が整っており、抒情も詩的ながら抑制的でもある。表現したい芸術性と小島の文体がお互い影響しながらできた作品と読みたい。湖の歌は連作のなかで湖に行った歌があり、モチーフとしてではなく、リアリティのある上句である。そんな湖の余韻の残ってる腕で、宅配便という日常的なものを受けとることで、いわゆる祭のあとのようなさびしさがみられる。さて、飛躍に関して小島は時間や距離を長くとっていることがわかる。たとえば段ボールから日輪、航空機から空のタカアシガニ、そしてレシートから縄文時代と、距離は空や宇宙、時間は縄文時代とめいいっぱい振り幅をとっている。詩的空間は広がるが現実感が希薄な印象を抱く。      雪を踏むローファーの脚後から見ている自分を椿と気づく   筆洗いバケツの中の濁り水 盗まれたように時間が過ぎた   体内に三十二個の夏があり十七個目がときおり光る   この日々もいつか幻まぼろしは忘れてしまう花火ではない  その印象に答えるような歌も収められている。雪を踏むの歌では椿は詩的なモチーフであり、高校生の後ろ姿を見ている自分が詩になってしまったとも読める。高校生でもないし、大人でもなく椿で

フレンチトースト

 唐突だが筆者は海外に行ったことがない。たとえば、目にしたものが現実で、それ以外は存在しないという立場をとるとしたら、日本しか存在しないことになる。海外に行きたくないというよりは海外の映像や音楽、料理を埼玉県にいながらにして堪能できてしまっているので、わざわざ高額かけていかなくても、駅前で本格的なカレーも食べれるし、NHKをつければたいてい海外の映像が流れている。  休日に午後立ち寄ったカフェでフレンチトーストを食べたときにある疑問がわいた。仏国風といいつつ食パンなのである。ピザにクリスピー生地であるイタリア風と、パン生地であるアメリカ風があるように、このフレンチトーストも亜流なのかもしれない。勝手な筆者の妄想だと固くなったフランスパンを美味しく食べるために調理したのがフレンチトーストだと思っていたからだ。こうした謎は海外にいかない筆者には解決できない。アメリカ風かもしれない、いやむしろ日本風かもしれないフレンチトーストを美味しく食べるのだった。少しもやもやしたがメイプルシロップをたくさんかけたら悩みが吹っ飛んだ。カナダ風かのでは?という疑念も多少わいたが。

ひらくと花の寺 大下一真著『鎌倉 花和尚独語』を読む

 大下一真さんにお会いしたのは空穂会が最初で、その後毎年楽しみにしている方代忌でもお世話になっている。鎌倉の瑞泉寺の住職でもあった大下さんは歌人として住職として、来場した方々と話したり、運営側でもあるので準備をしたりとお忙しそうだったが、筆者にも声をかけてくださるのでありがたいと思っていた。話も決まって面白く、筆者に郵送物が届かなかったことがあったときも「駆け落ちしたのかと思った」とおっしゃっていた。  『鎌倉 花和尚独語』は大下さんのエッセイ集である。四十八編ものエッセイが収められているがどれも面白いなかにありがたさも感じる。まさに大下さんと話しているときの、説法のような小噺のような雑談といった感じなのだ。前半は読売新聞夕刊の「たしなみ」という記事から、後半は「短歌往来」の連載からの収録で見逃したファンにはありがたい。「道場の食事のマナー」は沢庵について言及されている。馬場あき子先生が以前、瑞泉寺の沢庵は美味い、大下一真は料理が上手いとおっしゃっているのを思い出した。岩田正先生もしかり空穂系の男性歌人は料理が上手いひとが多いのだろうか。さて、円覚寺の場合三浦半島の大根農家まで托鉢して、寺で沢庵を漬けるらしい。道場について触れられているときは軽やかな文体だが厳しさも感じる。また瑞泉寺は花の寺でも有名だが、日本の固有種の紫陽花が多く咲いていることや、挿し木で大下さん自身も花を増やしており、それを錬金術と茶目っ気のある呼び方をしたりと、章のどこを切り取っても読みどころがある。エッセイの長さも新聞や雑誌の連載記事なのでそこまで長くなくどんどん読み進められるし、それぞれの章が独立しているので途中で中断でき、リラックスして読めるのも魅力だ。  瑞泉寺はコロナ禍が終息したら行きたい場所のひとつだ。そのときは夏だろうか冬だろうか、石段を登って花もしかしたら紅葉か、を愛でたい。

かりん一首鑑賞2020年6月号

  美容室の看板ネコに女子力のツンデレ極意教えられゆく 長谷川明美  ツンデレが流行り始めたのは『エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレーや、『涼宮ハルヒの憂鬱』の涼宮ハルヒあたりだろうか、思い返すと十年以上前になる。時が経つのが早いと思う年齢になってきた。さて、引用歌ではツンデレは女子力であるという。女子力とは何かいろいろ出そうだが、ツンデレは行動主義心理学でいうところの部分強化という概念に近く、対象を振り向かせるのにはもってこいの方法である。そんなツンデレを、美容室の看板ネコというジブリに出てきそうなネコに教えられるのは、何か物語が始まりそうである。教えられるといいつつも、むしろネコの術中に長谷川がかかってしまっているのが面白い。そして、教えられゆくという進行形なので、長谷川自身もツンデレ極意会得者になるのだ。

箱庭日記2020年6月

某日  西行物語を読み始める。ところどころ注釈でダメ出しがあるのが面白い。 某日  休日。散歩したり時評書いたり、西行物語を読了したり。 某日  夏らしくなってきた。夏の夜はまた違った趣きがある。下村湖人の西行の眼を読了したが、西行というより下村湖人の眼な気もする。幸田露伴の二日物語も西行がテーマの小説。これは面白い。  地元に一分で登頂できる山と、三十秒で登頂できる山があるんだけど、ひたすら山の歌つくって山の歌人になるのはどうだろうか。 某日  六月は多忙で日記がつけられなかった。無念。