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風をまとって 貝澤駿一連作「決別」(角川「短歌」/二〇二〇・九)

  大切なことは風にはたずねずに自分で決める 風はうなずく 貝澤駿一「決別」(角川「短歌」二〇二〇・九)  貝澤はいろいろな仕事を卒なくこなす印象をもっているが、卒なく人生を生きられる人などはおらず、様々な葛藤があったのだろう。少し前の歌だときらきらときた青春が全面に出ていたし、教師として勤務して間もないころは生徒の瑞々しさも詠っていた。もちろんその中には英米文学的な文脈があったり、教育者としての視点が潜んでいたりと意図はあった。引用歌はそれまでの作品とはまた違う展開があり、人生のひとつの転換についての決意の歌である。年齢的にはある程度社会にこなれてきて、生活に余裕が出てくる歳でもある。そこで、〈大切なことは〉〈自分で決める〉のだ。風は引用歌においてどのような存在なのだろう。他の歌を読んだことがある人は、いままで貝澤に沿ってきた文学の象徴だとわかる。「決別」において貝澤はいままでの殻から脱却し、自ら選択をする。それを風が諾うというひとつの対話なのだ。  結社の新人賞はひとつの区切りだと思う。新人賞を受賞するまでの作品の集大成が受賞作ならば、その後はそれを超えていかなければならない。角川「短歌」の「結社賞受賞歌人大競詠」はちょうどそれを模索しているタイミングで依頼される。ただ、結社賞受賞歌人を並べただけではなくそうした意義があり、いい特集だと思う。引用歌は貝澤の今後の歌を象徴する一首になるだろう。

赤き火も春風も 塩浦彰著『評伝 平出 修 而立篇』(新潟日報事業社/二〇一八・九)を読む

   柳には赤き火かかりわが手には君が肩あり雪ふる雪ふる  新潟県に引用歌の歌碑があるらしい。本書では〈火〉は男女の心身の炎火であり、柳は遊郭のモチーフだと読まれている。また下句はともに寝ている場面で故郷ロマンと割りきるのは早計だという解説から始まる。平出修は法律家と文学者の二足のわらじで歩んできたことと、大逆事件の弁護を勤めたことで有名だが、「明星」の他の文学者に比べると文学の文脈では語られる機会が少ない。本書は平出修の三十歳までの評伝であり、文学に接近した経緯や法律家になるまでの過程、世間の評価と自己の奮闘ぶりが、つぶさな研究・調査であきらかにしている。  平出姓は婿養子になったあとのもので、児玉修として幼少期は過ごしたようだ。名家の出で学力も秀でいたが八男ゆえに自活する生き方を意識せざるを得なかったらしい。そこから教員という進路に行き着く。修は櫻井家に一度養子に出るのだが、櫻井家は商家で商人の修養は受けるが進学させてもらう気配はなく、その意図を察してか児玉に戻るという出来事がある。波乱万丈な幕開けではあるが、この商家の経験が、同じく和菓子屋ではあるが、商家出身である与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」をかけて、大町桂月と対峙したことにつながっていると塩浦は考察している。  本書を読んで興味深かったのは新詩社の入会と、平出ライとの結婚が同時期だということだ。そしてその後にライの兄である弁護士の平出善吉の勧めで法律家への道に舵を切る。給与のベースアップや善吉を手伝うためという意味合いもありそれぞれ関連しているものだが、同時期というのがまさに二足のわらじ的である。法学書生ながら『法律上の結婚』や、東大七博士が日露開戦を促す内容であるとされる建白書を政府に提出した事件に対する批判である「七博士の行動を難ず」を発表した文筆の充実ぶりは、平出善吉の「越後日報」の創刊という発表の場ができたという追い風や、文芸家としての素養があったからだといえそうだ。また、世間の風潮に流されずに婚姻制度や建白書にメスをいれる姿勢は不条理を許さないという修の個性がでているともいえる。   花にすぎ小草たづねて世の塵に春風軽う吹くも情けか  塩浦は小草とは民でそこに春風が吹いている。情けは『法律上の結婚』等に記されており、女性に権利の自覚を促している歌だと述べている。女性に特化しているというこ

ホタルはいるね 高橋千恵歌集『ホタルがいるよ』を読む

  ホタルを最後にみたのはいつだろう。日常生活ではホタルに出会うことはないし、さらにいうとホタルの存在を忘れていることがほとんどだ。   「氷いちごを食べたみたいね」染められた赤いプラークそしてその舌   おさなごがぷうと風船ふくらますように無花果まだまだ実る  歯科衛生士である高橋は歯科医院でのケアのほか、福祉施設に訪問してケアすることもあるようだ。プラークの検査で赤い染料を使用した記憶がある人も多いだろう。そのときに引用歌のように氷いちごを食べたみたいだとか、ドラキュラになったみたいと笑い合った人もいるはずだ。そんな微笑ましい歌である。引用歌の場合は回想ではなく、現在の歌で染められる側でなく染める側なのである。歯科衛生士は乳歯から義歯まで関わる。分かりやすく、怖がらせない説明は先述のように微笑ましい記憶と同居するのである。二首目は歯科以外の場面から引いたが、先の歌の表現に近いものがある。無花果の形態の比喩が可愛らしいのである。ガクの部分の反り返りも風船らしくドンピシャの比喩なのである。   「それいいねドコのエプロン?」「通販よ」くるりと回るロッカー室で   トマトにも負けないわってつやつやのプジョーはキーもドアも重たい  もう少し歌を読み進めていくとチャーミングなわれというものがあるのだと気づく。それいいねの歌はエプロンの入手先を問われ、「通販よ」と答えるが、たとえばわれが実店舗を答えて質問者が「じゃあ今週末行ってみようかな」とつながるほうが順当である。しかし、通販だと少し肩透かしを食らった感じになる。そしてわれがくるりと回るそんな少しシュールでほのぼのとした場面である。トマトの歌は、トマトとプジョーがつながるのが独特で面白い。プジョーは丸みを帯びたデザインのものもあるが、外車で獅子のエンブレムがカッコいいイメージがある。そんなプジョーがトマトと張り合う歌は、無花果を風船で表現した感性に近そうである。   雪うさぎ並べておりぬ東京にまだいるのかと問われていたり   たっぷりは深さでしょうか この三月《みつき》わが身流るる近江のうみは   指先を揉みながら塗るユースキンだからだからの冬がはじまる  陰陽があるなら陽の歌を多く引用してきた。楽しい歌の裏には上京や京都での研修などの奮闘がある。引っ越しは引っ越す理由も紆余曲折あるだろうし、引っ越し自体も心理的負担が大

魔術師のもつ宇宙

今野真二著『北原白秋―言葉の魔術師』 魔術師のもつ宇宙  北原白秋といわれ真っ先に思い浮かぶのは「桐の花とカステラの時季となつた。」や、「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である」といった「桐の花とカステラ」の一部である。白秋は短歌だけではなく童謡、象徴詩、紀行文、また短唱と多様なジャンルで名作を残している。その膨大な仕事に向き合うのは至難の業だが、本書は『邪宗門』や『桐の花』を中心とした考察や、詩集と歌集の比較とテーマを絞り白秋の言語宇宙を俯瞰している。  本書では周辺の作家の評や、作品を補助線として魅力に迫っている。私は「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。」から始まる絢爛たる言葉のシャワーを前に挫折したことがあるのだが、木下杢太郎は「「邪宗門(原文ママ)」の詩は主として暗示(サジエスシヨン)の詩である。感覚及び単一感情の配調である。」とし、「読者は各自の聯想作用を此織物に結び付けなくてはならぬ。(中略)故に「邪宗門」は一方に未完の詩の集であるといつて可い。」と読みの補助線を引いている。今野は想像力がない人間は『邪宗門』は永遠に未完のままとなり、また想像力をもった人間のみが、自己の「千一夜」として『邪宗門』を簡潔させることができるとしている。また、〈かはたれのロウデンバツハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし 北原白秋『桐の花』〉の〈かはたれのロウデンバツハ〉とは、上田敏『海潮音』所収のジォルジュ・ロオデンバッハの「黄昏(たそがれ)」のことで、『海潮音』から影響を受けていることを指摘している。  白秋作品はジャンルが異なっていても、心的辞書に基づいてイメージを言語化したものである。「水ヒヤシンス」を例にとると、『思ひ出』所収の詩の一連「そも知らね、なべてをさなく/忘られし日にはあれども、/われは知る、二人溺れて/ふと見し、水ヒヤシンスの花」と、『夢殿』所収の「草家古り堀はしづけき日の照りに台湾藻(ウォーターヒヤシンス)の群落が見ゆ」があるが、今野は「変奏曲=バリエーション」ととらえる読み方もできるのではないかとしている。また、『白南風』所収の「架橋風景」と、『海豹と雲』所収の「架橋風景」においても題材や語彙の共通点を指摘し、対応関係にあると述べている。共通項があるゆえに詩型による表現の差異が明確にあらわれており、横断的に読まなければ知りえない味わい方である。

夏の読書環境について

  ここ最近、小型の冷風扇がネットや通販で売られている。フィルターに水を吸わせて気化熱で涼をとるというものだ。使用した感覚はあまり涼しいとは言えない。フィルターにより風力が減るので、少し涼しい風がちろちろでる程度なのだ。まだ扇風機のほうがよさそうだ。それでも温風がくるから扇風機は心もとないというのなら、濡らして首にまくと涼しくなるらしいスカーフ的なものを扇風機にかけると多少いい。  さて、何を言わんとしているかというと夏の読書環境の整備は扇風機とエアコン、併用と正攻法でいくべしということだ。避暑に使ってきた図書館はコロナ禍で長居ができない。

手相見がいる町 藤島秀憲歌集『ミステリー』を読む

 父母、妻、ときに祖父母ととにかく家族が近くにいる歌集だと思った。回想の歌もあるので別れのあとでも、夢や思い出で歌に登場するのだが、われの人生や歌のなかに家族が内在化されているのような印象をもった。   父が建てわれが売りたりむらさきの都わすれの狂い咲く家   あっいまのもの言い父のもの言いだ わたしの中に父育ちゆく  とりわけ父の歌が多い。他の歌を読むと父に対しては複雑な心境を抱いていそうなのだが、父を拒むことなく受け入れているのが印象的だった。しかし、ただ手放しに受け入れているわけではない。一首目は不動産が相続されて、ライフプランに沿って売られていく順当な流れのなかで、狂い咲く都わすれが印象的だ。狂い咲くという現象と、都わすれという含みのある名前に乱れた心境があらわれている。序盤にある歌なので読み流してしまうのだが、二周目あたりからこの歌の重要性に気づく。二首目は直接的な歌だが、口語的な表現をすることで、父がわれのなかで育っていることを受け入れるような歌である。   わが部屋を君おとずれん訪れん座布団カバーを洗うべし洗うべし   強い人にはなりたくない 玉葱は水に三分さらすがよろし  本歌集を読んでいてわれに好感をもつ読者も多いように思う。それは他者に真摯に向き合っているからである。わが部屋をの歌は、付き合っている君が自宅にくるときの歌だが、不器用さがリフレインで表現されている。不器用さといいつつ自然にそして、技巧的にわれが立ち上がってくる。玉葱の歌のように辛味や匂いがほどよく抜けた人物をわれは望ましいと思っているのだが、そうした人物像を歌を通じてつくりあげている。   たよりあういのちふたつが一匹の鯉の生みたる波紋を見詰む   長すぎる昼寝した日の長き夜 春のかぶらは漬かりつづける   手相見を町から消した夜の雨わが票がまた死票となりぬ  先程、「自然にそして、技巧的に」と筆者は述べたが、家族やわれの歌などテーマから少し離れた歌であってもその傾向はみられる。たよりあうの歌は、読者は一匹の鯉の方に目が向くが、その目線はわれの目線である。読者はわれの目線に誘導されて、われと君の物語に引き込まれるのである。長すぎるの歌は無聊な歌であるが、かぶらの漬物という生活感覚のあるモチーフが無聊とは別なわれを立ち上げる。次の歌も同じように、われの支持する候補者が負けるという上手

箱庭日記2020年7月

某日  時評をすすめる。トピックが見つかったので終わったようなものだ。  昼は桃李という地元のラーメン屋で鯛白湯麺を食べる。もはや割烹の和食の域に達している。 某日  論語読了。「知者迷わず、仁者憂えず、勇者おそれず」とか、有名な「知者水に親しみ、仁者山に親しむ」のような言葉は簡潔明瞭でそれでいて、日頃の自分や社会について考えさせられる。 最近疲労感が抜けないのは暑さかマスクか……。補中益気湯という漢方を飲み始める。 某日  仕事でヘトヘト。補中益気湯がんばれ。機会に恵まれランチは西武百貨店で飲茶にした。  今年はコロナ禍の影響で方代忌ロスになりそうだが、そんな憂いを吹き飛ばす本が届く。近々ブログに書評をあげよう。 某日  仕事で数字の予測をせよというミッションがでる。重回帰分析をしてたけど、独立変数を何するか皆目検討がつかない。悩んだ挙げ句、日々の投資でテクニカル分析してたことを思い出して、移動平均線を提案してみた。株と同じく、未来予測は水物ですよと添える。  久々にお酒を飲む。やはり弱くなっている。ブログを書けるような状態ではない。 某日  休日。昨日の酒が残っている。コーヒーを飲むと少し頭痛が和らぐ。夢枕獏の『腐りゆく天使』を読了。『月に吠えらんねえ』然り、朔太郎は面白いひとだ。  午前中は法哲学について調べる。ドゥオーキンはフーコーのアルシーブと同じようなことをいうのだが、あまり絡みがないようだ。哲学的潮流というやつか。  昼は地元のうどん屋で肉汁うどん。夜は山田うどんで赤パンチ定食を食べる。  時評がほぼ書けた。 某日  仕事で午後に披露のピークがくる。気圧なのか頭重感がすごい。ロキソニン2錠で撃退した。今日は銀河英雄伝説を見て、歌集を読んで寝よう。 某日  休日。歯石を取る。空気の通りが良くなった。  最寄り駅にある、農村保健館という保健所の元についての記念碑の題字は与謝野光(晶子の子)らしい。  某日  毎年異常気象といわれているけどつまるところ気候変動が根底にあるのですよね。となると小泉進次郎が何かしら記者会見すべきだと思うのだが、テレビをつけると気象庁の職員ばかりが出ている。 某日  『時と永遠』を読んでいくうちにだんだんわからなくなる。でもとりあえず読む。 某日  岡井隆さんが亡くなった。未来の全国大会にお邪魔したときにお見かけした。斎藤茂吉、塚