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くもった眼鏡 十首

  くもった眼鏡 グレイビーボートが食卓からはなれ昼寝するわが頭上をとおる キリストはわれに休日与え給う七十五まで働ける世に 布ぐつで水たまり避ける足どりはフラミンゴからもっとも遠い 紫陽花が赤く咲きおり桜木の下には死体が睡るというが 鼻で食うものかもしれぬ灼熱の麻婆豆腐に対峙しており 麻婆豆腐はじめにつくりし陳麻婆美人という説すこし信じる 「石の家」「味王」歌人は中華好き歌会あとの二次会が好き 背景は雨で眼鏡がくもってて令和二年のわれはほほえむ? 梅雨よりも雨季というべし日本が泥に戻ってしまうほど降る 唐突に晴れればビニール傘たちはあるじを失い墓場へ行くも

かりん一首鑑賞2020年9月

  転生をかさねて鰈蝶と魚くつついたやうでかなり怪しき 渡辺松男  鰈は蝶と漢字もうす平べったい形も似ている。転生をかさねてというのが、輪廻転生的な意味であっても、遺伝子操作であっても重ねることで、異形になるという歌である。  魚になりたかった蝶か、その逆か、悩んだ末何度も魚と蝶を行き来したのか。そんな一回の生を超越していくうちに本来の生体から離れていってしまったという少しグロテスクなおとぎ話のようにも読める。  〈かなり怪しき〉は奥行きのある言葉である。グロテスクなりだと広がりがない。怪しきという斡旋から、怪しいのは見た目だけではなく、精神性も含めて怪しいのだとわかる。そして、それが悪だとも言い難く道徳的に倫理的にも微妙なものであることを示唆している。  韻律面からは二句切れになっており、意味の切れ目と相まって不安定さがある。少し不安な上句から始まり、かなり怪しい結句まで展開するところも、魚か蝶か定まらないことをあらわしている。

箱庭日記2020年8月

某日  即興詩人はまだ続く。たまに急展開があり驚く。昼は穴子天丼を食べる。夏は穴子が一番。  有斐閣アルマ『環境法入門』読了。ラムサール条約やリオ条約などの条約をざっと解説して、公害から原子力発電事故までざっと触れている。環境倫理よりシャローだが、環境アセスメントの流れがわかったのはいい。 某日  カフェにはいったところ、隣で面接している。男は採らないみたいなことをきっぱり言っていて、ジェンダーについて考える。 某日  時評脱稿。某エッセイもいい調子。 某日  山田うどんで豚キムチ丼を食べる。美味しけど赤パンチのほうが好きだ。 某日  残業多く結社誌をめくる程度。歌はわずかだがつくる。疲れてるときの歌ってばらつきが大きいのでそのうち消すかもしれない。  書きかけの評論と、書かなきゃいけない評論があるので次の休みにやろうかな。 某日  休み。昼はインドカレー屋にいく。インド人がこの暑さにバテてるのか、動きがいつもよりキレがない。  平出修の評伝を読む。 某日  平出修の評伝をまとめ始める。ブログにアップしよう。知ると知るほど文学的な評価はどうだったかわからなくなる。 某日  ハチミツのパンが美味しい。ハチミツは生態系の賜物なのでハチミツを愛することは自然を守ることになるのではないか。ハチミツ食べたいな。 某日  暑さで疲れている。何もできずに、いや本読んだかな?、眠ってしまう。 某日  残業長い。高橋千恵歌集『ホタルがいるよ』の鑑賞文完成。素読みして問題なければ明日ブログにあげよう。 某日  平出修の読書記録完成。ゲコの評論や来月の時評も考えなければ。投資信託の調子がいい。 某日  休日。平出修の小説『夜烏』読了。評伝でも言及されてただけあり修の故郷の捉え方が垣間見える作品。その後マッサージに行く。  昼餉は天ぷら屋椿で穴子天丼を食べる。夏は穴子に限る。  夜は『コクリコ坂から』をみる。 某日  仕事。ZOOMで全国大会の代わりになるかりん五百号記念号を読む会が催されるが、仕事で参加できない。泣く泣くファミマで買ったアップルカスタードというプリンがすこぶる美味い。  夜、ZOOMで後夜祭。断片的に内容を聞く。 某日  地元で美味いとんかつ屋をみつける。セブンイレブンのクリームどら焼きにフルーツが挟んであるやつが絶品。しかしこれはどら焼きかのか?  『ここはたしかに 完

馬と猫 坂井修一『縄文の森、弥生の花』より一首鑑賞

  亀よ亀よいづれたふとし博士ふたつもつ鷗外ともたぬ漱石 坂井修一『縄文の森、弥生の花』  漱石はラフカディオ・ハーンの後任として東京帝国大学にて英米文学の教鞭をとる。教授の授与を辞退するのである。かねてよりの教師嫌いもあるだろうが、中村文雄著『漱石と子規、漱石と修―大逆事件をめぐって』(和泉書院/二〇二〇・一二)によると、 「日露戦争の直前,7人の学者が開戦論を唱えて桂太郎首相に意見書を提出した事件。」(世界大百科事典第2版)である七博士意見書に賛同できなかったということもあるようだ。常に体制側にいて、文学と折り合いをつけている鷗外と、個人主義を貫く漱石とどちらが文人(博士)として尊いか亀に問いかける。答えはないため亀に問うのであろうが、国の情報技術を担ってきて、アメリカと日本のアカデミアや政治に葛藤してきた坂井はどちらかというと鷗外に近い立場なのだろう。作品にも鷗外のほうが圧倒的に多く登場する。そこに漱石という存在があり亀を見ているときにふと比較してみるのだ。  岩田先生や小高賢は一方で漱石の歌が多い。いまは語るほどの準備はないが、いずれ考察すべき事柄だと思う。