「知に対する含羞、俗への共感と親和性といったアンビバレントな振幅を見せる」と島田修三は解説する。饒舌な栞文よりも、簡潔な帯文のほうが正鵠を得ることがあるなと思う。
七月は無言のままに終えたしとミンククジラの骨を撫でいる
見失うものの多くてこの真昼鳥類学者のように立ちおり
ありたけのさくらはなびら大鍋で煮つめたしこの無聊のために
秋の夜に狸見しよりこの荒れ地メゾンタヌキとわれは呼びおり
島田は「俗への共感と親和性」について触れたため、ここでは脱俗志向のある歌を引いてみた。一首目、二首目は歌集の前半に位置する。いずれも世俗の忌避と、社会から距離のあるミンククジラや鳥類学者(学者はアカデミックな世話事が多そうだが)が組合わさり一首を成す。脱俗においても自然科学的のような知的な視点に立っている。三首目は美しい奇想である。色合いも香りもよいだろう。上句のかなは意味性を軽減させており、また桜の花びらを煮詰めるという行為も実用から遠い行為である。四首目はスタジオジブリ制作の『平成狸合戦ぽんぽこ』のエンディングを彷彿とさせる。かろうじて都市郊外に残る生態系を捉えている。
執拗にわれを責めいるメール来て返さねば午後二通目が来る
二通とも消去せし指がするめいか剝いて夕べを捌いて炒め
日曜の午後の会議よ教員は屑か真面目な屑しかいない
人のいない海まで走る電車だが(スーツ着てるし)勤務地で降りる
世俗的な歌を探すと主に人間関係の煩わしさを厭う歌が多い。一から三首目は直接的な表現で、最近の短歌にあまりない詠いぶりだと思う。〈佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず 小池光『日々の思い出』〉をはじめとし、少し前の短歌には度々あった。短歌に限らず、近代の批評は舌鋒が鋭いものが多い。滝本はそうしたテキストを念頭に置きあえて露悪的な表現をしている。そうしたところに技巧を超えた、覚悟のような、作家の態度のようなものを感じる。しかし、それだけでは作品も読者ももたない。なので、二首目はするめいかを調理することで矛先を逸らしている。そうした逸らし、場面の転換は先述の脱俗の要素もある。また、四首目のように人のいない海を一瞬夢想するのである。脱俗は「俗への共感と親和性」の裏返しなのかもしれない。斜に構えつつもどこか、しっくり来ないところが、島田のいう「生きづらい現代の市井に生きる学究」なのだろう。
文学的に先鋭化された自我のもつ世界と、雑多な社会の、ときに緊張関係をもち、暗喩的に、関係が多く詠まれる。結局のところ、他者と橋渡ししたり、折り合いをつけたりするしかないのだが、そうした歌に惹かれたので最後に引きたい。
誰とならうまくやれるかたぐりつつあぐねつギリシャ・ローマの神話
言葉無残に小鳥の群れのごと去ってわたしは夜の土鍋を磨く