植物園に行きたい。開花時期不明の極彩色の花々、スマトラオオコンニャクやラフレシアのような異形の花、むんとした湿気、そして外界から隔てられたガラスのドーム。本ネプリを印刷すると松ぼっくりのような、ドリアンのような実の写真が載っている。グーグルレンズで調べるとアダンというものらしい。質量もごつごつしたフォルムもまさしく熱帯植物でアダンの写真によってより一層植物園への憧れが強くなる。筆者は植物園に行きたいのか、吟行に行きたいのか、もう一層のこと南国に行きたいのかわからないまま、感想ブログを書くことにしたのである。
鰓と口をともにぱくぱくさせながらあおいさんへと近づくさかな 酒田現
鰓と口は別物で哺乳類でいう鼻と口というべきだろう。魚としては熱量の高い状態である。「あおいさん」のことを餌をくれる人だと思ったのか、人影に単に興味をもったのか、歌では「あおいさん」に限定されているので、主体の元へと魚は集まらなかったということだ。そこに自分にない魚を引き寄せる性質をみている。その気づきを得た時点で、主体は幾分か魚の視点も獲得していることも示唆される。
温室のスターは食虫植物と締め殺しの木 当然のように 仲井澪
植物園に行くと多くは食虫植物がある。食物連鎖がそこだけ逆行しているようで、また巧みな狩猟技術をみると進化の妙がみられる。絞め殺しの木は有名どころではガジュマルだろう。キムジナーがガジュマルに住むといわれ、茎が縄や網のように広がる構造的な姿は人の心をつかむのだろう。さて、温室のスターは左記やその他要因により、集客力のありそうな植物で、植物園の運営において重要である。しかし、それはあくまで人間目線、商業目線の価値観であり、そこに仲井は疑義をもっている。引用歌とは関係ないが、酒田の連作にも、仲井の連作にもシナモンの木がある。歌会の名でもあるシナモンの木、自生している状態でも香るのだろうか。
唇の青そのなかに舌の青こめてしずめりナポレオンフィッシュは 佐藤あおい
上句は口の中ということだろうが、その小さく狭い空間に深さがあり拡大鏡的な観察が面白い。小さく狭い空間に、広く深い青い空間をもつナポレオンフィッシュは静まっているというところも、ひとつのミクロコスモスのようである。ナポレオンフィッシュは酒田の連作に登場した魚なのだろうか、この歌同志の微妙な紐帯も吟行も歌の魅力といえる。もしそのように読むのなら、酒田の歌の目線と、佐藤の歌の目線二つから光景を見ることになり、空間的に広がりを帯びる。
複数の作者が連作をつくり、間もおかずに発表でき理にかなっているため、吟行ネプリの試みはとてもいい。アダンの写真が添えられているのも南国情緒があり、タイトルのフォントもいい。
ネプリの感想を書いたとて、「筆者は植物園に行きたいのか、吟行に行きたいのか、もう一層のこと南国に行きたいのか」の謎は解けず、思いは募るばかりであった。そういえばポール・ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」はタヒチの絵であった。タヒチは遠い。