教会のステンドグラスを透過して初明かりわが内に射したり 1/1
ふらんす堂の「短歌日記」シリーズの一冊。本歌集は二〇二四年のものである。短歌日記は一月一日から始まるのだが、正月という統一されたテーマゆえに、その一首に個性が出る。大口は〈教会のステンドグラス〉というクリスチャンならではの場面で、初明かりという清らかなものが自らの内面にまで射しているという。正月それ自体はハレの日という日本的な祭りのイメージがある。加えて信仰を透過すると一年が清らかであり安寧であるよう祈るような雰囲気も出る。
東北と違う寒さがあると聞く聞くのみ能登に雪降ると聞く 1/12
倒壊の家屋に死者に海に降らむ予報の地図に雪だるま立つ 2/12
二〇二四年は能登半島地震があった年である。短歌日記という形式上、記録性を帯びる。一首目は発災後十二日経ったときの歌である。雪と輸送の寸断が連日報道でなされていた。被害の全貌もみえないなか断片的な情報“のみ”が報道され、その〈のみ〉が歌では強調される。歌には能登の描写はなく、まだ錯綜していることが察せられる。二首目は一ヶ月と少し経ったときの歌。倒壊の家屋や死者等、震災の被害が詠まれる。復旧対策期から復興支援期の移行する期間であり、徐々に生活を建て直すという時期である。震災に加え雪害もあり、一首目と比較して、或る鮮明さで被災後の生活に心寄せしている。
幼子が大人を真似て言へるとき「アーメン」まことにまことに光る 4/4
詞書によるとアーメンはヘブライ語で本当に、まことにそうです、然り、そうありますようにという意味らしい。大人にあって幼子にないのは、祈るときの雑念や下心といったもので、幼子はそれがない分、アーメンと無垢に神をうべなうという内容であろう。詞書を読むとより一層内容が理解でき、大人である主体や読者は、幼子の祈りを目の当たりにして〈まことにまことに〉と畏れる。信仰の歌が他にも収録されているが、次の引用歌のように短歌自体を詠ったものもある。
踏み込んで着地寸前で上げてゆく油圧マシンも定型である 5/2
フィットネスジムに通っていると詞書にある。ここでは〈定型〉を短歌のこととして読む。短歌は主題や歌の対象に、ときに批評的に、または抒情的に踏み込んで、結論を完全には出さずに詠うのがよいという歌意に読める。そのように油圧マシンは、短歌を類推させるものであれば、〈上げてゆく〉という箇所には、詠い下げるのではなく、詠い上げるほうが好ましいように読める。大口の歌論めいた一首である。
いつせいに花降るごとくミサ中の心に降る短歌《うた》さへもあふれて 3/3
詞書に「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と聖書の引用がある。ミサ中の心に短歌が溢れるということだが、ミサ中であることから信仰はもとより多くの心を占めているのだろう。上句の〈いつせいに花降るごとく〉という比喩により短歌や信仰が不可分に溢れていることがわかる。大口にとってこの二つは、二足のわらじ的ではなく、二項対立もせず、不可分に存在しているようだ。本歌集には生活の機微のようなユーモラスな歌も多く収められているが、災害、戦争に対して向き合う歌が印象に残った。短歌も宗教も、膨大な歴史や人類知によるものである。それらを用いてこの世界の一年を見つめる歌集である。
今日的には膨大な歴史や人類知が蹂躙されている。いや、自覚していなかっただけで、以前より危機であったのかもしれない。短歌“日記”でも古びることなく、本歌集を読むと今日的な状況についても考えさせられる。