馬場あき子歌集『アスパラの芽立するころ』を読む

  「炉火純青の新歌集」と帯に書かれている。恥ずかしながら炉火純青という言葉を知らなかった。炉の火が完全に青くなるとき最高温に達するように、学芸が最高の域に達することという意味らしい。馬場はなお現役で、現在の歌人のなかで最も長く短歌に接している。またその間の歴史、短歌史、歌人としての生の濃さを加味すると破格といっても過言ではない。成る程確かに、炉火純青という文言に説得力がある。

  十一時すぎて時鳥鳴くころを夜濯ぎの器機鳴りをはりたり

 夜濯ぎの器機は洗濯機。季語でもある。時鳥の鳴き声と、夜濯ぎの器機の駆動音という音のみの世界がある。日常生活のなかで幻視をしたり、幻想を生み出したりすることが、やや幻想文学寄りな観点だが、文学の働きであるという言説がある。引用歌は、夜濯ぎの器機というように洗濯機から通俗さを除いたこと、時鳥も洗濯機も視覚ではなく聴覚により把握したことで、衒いなく日常生活に幻想性を持たせている。

  まひまひは小さきまひまひを補食する夜々のしづかな消滅の闇

 あとがきに蝸牛を歌友からもらったとある。蝸牛ばかりの連作が前半にあるのも面白い。先行して〈白き人間まづ自らが滅びなば蝸牛幾億這ひゆくらむか 土屋文明〉という蝸牛の歌もあるが、馬場はさらに蝸牛三昧である。文明は蝸牛を気味悪がっているので距離があるが、馬場は飼っているので細かい生態に目が行き届いている。引用歌は蝸牛の幼体を、少し大きい個体が共食いしてしまうという歌。蝸牛自体、生存率の低そうな脆さがあり、また動きも鈍いため共食いするほど野性的なイメージはない。しかし、共食いするのである。無表情に大きな蝸牛が、小さな蝸牛をゆっくりと飲み込み、音もたてない場面を思い浮かべると不気味である。この蝸牛の生の在り方を切り取り、喰われた蝸牛は闇のなかに存在が消滅したと詠う。人間はどうだろうか、大きな存在に苦しめられたときには声を上げることはできるのだろうか、またそれを聞く人はいるだろうか。社会的であれ、生理的であれ、霊的であれ、蝸牛同様に闇のなかに消滅してしまうことはないのだろうか。馬場は蝸牛の生の点滅を歌っているが、詠んだときの不気味さと儚さを感得するということは、蝸牛に限ったことではないと、読者が無意識に感じ取っている証左であろう。

  残骸の殻は小さきリングとなり葉に残りたりわれは見るのみ

 蝸牛の死は、小さなリングという記号になってしまった。この記号を読み取れるのは、馬場か、偶然そこに居合わせた蝸牛に詳しい第三者くらいだろう。そのリングも数分もしたら風などに飛ばされて、生分解されてしまう。先の歌は共食いであったが、蝸牛の自然死もまた、人間とは比にならないほど儚い。蝸牛の些細な死の記号を馬場は読み取る。食べられた蝸牛と違い、小さなリングにより死は記憶された。馬場の蝸牛の一連は、蝸牛という小さな世界を小人の視点で観察し、共食いと、小さなリングと死の違いを詠い分け、小さな生命の実在に迫るという点に特徴がある。

  みちのくの秋の浜辺の焼き雲丹の香に立ちて熱燗とする八海山

  坂井くんのワイン講釈半ばよりどうでもよくて白から赤へ

 飲食の歌も多い。一首目のように諸国の珍味と銘酒の歌に食道楽的な面白みがある。実は詠われている焼き雲丹そのものを筆者は食したことがある。ねっとりと甘く海の香りが仄かにした。二首目は坂井修一が登場する。坂井を〈坂井くん〉と呼べる人物はそう多くない。情景が目に浮かぶ。聖賢の楽しみというべき超俗さが飲食の歌にある。

  太りたる秋大根を抜きし穴太陽を吸ひていよいよ暗し

  マスクしてコロナウィルスに抗へば不要不急のものらかがやく

  黄金のやうな晩年のひととせをコロナで棒にふつたと言はう

 コロナ禍の歌も収録されている。一首目は直接コロナ禍や、それに纏わる社会的事象を詠ったわけではない。秋大根はむしろそれらと無縁に思われる。しかし、抜いたあとの穴の暗さ、それも太陽を吸うというやや禍々しい様がコロナ禍の閉塞感と合っている。二首目は分かりやすく時代の雰囲気を掬いとっている歌だと思った。コロナ禍詠の何かの記事に引用されていた記憶がある。三首目のようなことは、馬場が冗談めいて口にしていたが、どこか寂しげに思った。たしか、「いやいや晩年なんてやめてくださいよ」的な返答をしたと思ったが、歌を読んでいま思い出すと無難であり良い返答とはいえない。

  鯱も海豚も鯨も啼くといふ海の大団円のやうな秋の陽

  深夜帰宅のまつ暗ら闇に入るときは女あるじのちからもて入る

 一首目は海に棲む大型の哺乳類を思い、さらに海全体の生態系をも思う壮大さに馬場の歌柄の大きさがみられる。陸上は人間が覇権を握っているが、海中はまだ余白があり、ロマンがある。結句の〈大団円のやうな秋の陽〉にそうした高揚感があり、読んでいて気持ちいい。二首目は、九十歳過ぎてもなお多忙な馬場の姿が垣間見える一首である。結句の〈女あるじの〉というところに、凄みがある。男あるじでは格好がつかず、女あるじであるべきだ。力強いだけではなく、厨仕事等の家事もその力でしなければならないという生活感がある。いやしかし、特別な〈女あるじのちから〉を使い奮起しないと仕事はこなせないということでもある。女あるじの面のしたにある馬場の素顔を見たような気がした。

 夫、岩田正の挽歌は心打たれる。歌で対話しているようである。

  山がいちばん木々のいのちにかがやく日柿生坂あたりにゐるか いわたさん

  夫の骨まだ一《ひと》つ家《や》にわれと棲む銀河しづけき夜なり おやすみ