かつて飯田橋駅から市ヶ谷駅の間に位置する大学に通っていた。外濠公園は、外濠である水辺、JR総武線、桜並木というロケーションで、濠というだけあって江戸城側かつ大学側の地面が高いため見晴らしがいい。大学生特有のアンニュイさと自由さのある気分で、市ヶ谷駅方面へ歩いていくと釣り堀があった。その名も「市ヶ谷フィッシュセンター」。その釣り堀は日本テレビ麴町ビルが近かったこともあり、多くの芸能人が来訪していたらしく、誰それがいたという噂はよく学内で耳にした。釣り堀の牧歌的雰囲気はテレビドラマの緩急にも用いられ、刑事ドラマなどでも登場人物が飄々と釣りをする場面があり、市ヶ谷フィッシュセンターに行ったこともないのに懐かしい気持ちになった。最近では、黒木華と野呂佳代が演じる登場人物が都知事選に挑むフジテレビのドラマ『銀河の一票』に市ヶ谷フィッシュセンターは登場し、ちょっとした密談の場面になった。主役の民主主義や福祉国家が根幹にある真っ当な政治観は、昨今の政治の混乱のなか見るには痛快であり、また、こうした価値観のあるテレビドラマが放映されることも希望である。
そんな、筆者を巡る釣り堀事情のなか、「シナモン歌会 釣り堀編」が配信された。前回は「シナモン歌会 おかわり!やまがた編」であり、いろいろなところを冒険しているところが楽しく微笑ましい。デザインの一部に魚の写真があしらわれている。釣った魚だろうか、大きい風なので鯉だろうか。順番がシャッフルされておりパズルみたいだ。
金魚のえさの匂いでねりけしみたいにこねる これは私の郷愁団子 仲井澪
金魚の釣り堀らしい。淡水用の練り餌は小麦粉やサナギ、にんにくなどで構成されており、歌のとおり匂いもどこか懐かしいものである。なお、魚にも嗅覚があり、顔面の髭のような形をした器官で、水中の匂い(成分?)を知覚する。釣り針を練り餌の団子に埋めるのだが、その団子状の練り餌を郷愁団子と表現する。幼少期に練消しゴムを練って遊んだ記憶もあり、また先述の匂いからくる懐かしさもあろう。金魚の練り餌のはずが、「私の郷愁団子」になり、主体の精神が釣りから離れているところに面白みがある。
くちびるをつらぬく鉤をはずすときつかのま魚の痛みに触れつ 酒田現
上句の生々しい血の匂いのする表現は人間に対して使うとリアリティ、説得力に欠ける。客体が魚であるため自然と読者に受け入れられる。釣り針ではなく鉤という言葉も釣りならではで、また返しのある構造をしていることも読み取れる。貫いた鉤を、返しごと外すのはより痛々しい。つかのまというのは、一瞬魚がビクンと痙攣したのであろう。この全身の痙攣が痛みであると、触覚から主体は知覚した。
さかたさんはさかなにもたくさん話す手のかかるさかなにはいっそう 佐藤あおい
固有名詞の歌は吟行ならでは。また、「男」、「人」、「君」など一般名詞や代名詞など匿名性が高いと、主体と客体の関係性や物理的距離など不詳な点が増える。固有名詞であると、誰だか知らなくても呼ばれ方や見られ方が相まって人物の解像度が上がる。この歌でいうと、魚に話しかけている「さかたさん」の近くで、その様子を主体が観察している。「さかなにも」とあるので、文脈的に魚だけでなく、人間やもしかするとその他の動物にも話しかけるのだろう。柔らかな歌ながら人物評になっている。また、佐藤の連作には釣りをしている場面があまりなく、浮きの浮き沈みよりも、友人を見ていた時間のほうが印象に残っていたのかもしれない。
「シナモン歌会 釣り堀編」、楽しく読了した。隠居したら釣りもいいかもしれない。筆者の住む埼玉県は海がないため必然的に淡水魚という選択となる。フライフィッシングは肩が攣りそうだ。魚より先に自分の肩が攣ってしまう。ルアーフィッシングは、イケイケな感じがして好みではなく、ブラックバスを釣り上げたときに、リリースすべきか、固有種を中心とした生態系保護のため何かしらで処分すべきなのか倫理的な葛藤がありそうで却下。ヘラブナはいいかもしれない。和竿は美しいため、たとえ釣れなくても、座るだけでゆっくりとした時間を得ることが出来き、何首か歌ができればさらに良い。