生活のためにやむを得ない労働はlabor、ある目的をもって努力するworkである。二つは文脈が異なるものの、不可分である。歌人にとって短歌はライフワークと言い得(labor様のときも実際ある)、生業はlaborの色が濃くなる。〈俺は詩人だバカヤローと怒鳴つて社を出でで行くことを夢想す 田村元『北二十二条西七丁目』〉などはまさにそんな葛藤の最中にあるのだろう。一方で、面白い職業詠に出会ったときは、実際のところ功も罪もないのだが、生業の功罪の功の部分が見えてくる。いつも通り前置きが長くなったが、「さんごじゅ」Vol.8〈働くことと、詠むことと〉を読むとそんな歌に多く出会う。
もう次の人のものです返却の本に挟んだままの紙幣は 天野陽子
司書の一場面の歌。栞の代わりに他の物を使うというのはよくある。筆者もレシートをよく栞に使う。ありふれた栞では歌にならず、紙幣が挟まっていることは珍しいことなのだろう。本を借りていた人が、読書に興が乗り、途中で本を閉じなければいけないときに手ごろな栞が見つからず、紙幣を挟んだという場面を想像する。そうすると読書に没頭していた人物像が想像でき微笑ましい。初読時は納得したのだがよくよく考えると、挟まった紙幣は次の人に引き継がれることに疑問が生じる。遺失物として預かることや、誰かしらの持ち物になるということはないのだろうか。貸し出された本が人の手から人の手に渡るように、紙幣もまた漂泊するということなのだろう。司書から見て書籍は漂泊するものなのだろう。職業詠は短歌的な抒情のほかに、職業人的視点が垣間見え面白い。
怠慢をなすりつけあう綱引きの綱の素材でも見てみよう 越田 有
具体的な仕事の場面は削ぎ落され、組織のありがちな集団心理的事象を詠っている。綱引きは、比喩としてよくみられるが、歌のとおりどのような綱を指しているのかよくよく考えるとわからない。綱引きで用いるような植物繊維を編んだ太い綱を想像するのが順当であろうが、建築現場でみられるような金属製の太い綱もある。港には船の停泊に使われる係留ロープもある。歌中でいう綱引きの綱の素材を調べることは、組織の膠着状態を分析することである。怠慢をなすりつけあうという綱引きは生産性がない。綱の素材をまず見てから大鉈を振るい、断ち切るのがよさそうだ。
女工らの推しの美男のブロマイド壁にありとぞ妙義寮はも 越田勇俊
富岡製糸場の女工の寮が妙義寮である。富岡製糸場は世界遺産になり、女工もかつてそこで働いていた。女工らは今日、歴史的な光景の中の女性たちというラベルを貼られる。しかし、引用歌は推しの美男のブロマイドを壁に貼るという、当時を生きた若い女性であることを改めて知らしめる歌だ。推しというのは現代的な用法だが、美男は古風な言い回しである。〈鎌倉や御佛なれど釋迦牟尼仏は美男におはす夏木立かな 与謝野晶子『戀衣』〉が念頭にあるのだろう。さりげないオマージュににやりとしてしまう。
いかすみのあたりめ摘まむ同僚も上司も手酌の集まりならば 高橋千恵
いかすみのあたりめ、乾燥したスルメイカがイカ墨ソースにまみれているのだろうか。イカの旨味が幾重にも重なり字ずらだけで美味しそうなおつまみである。宴席の一場面だが、今回の〈働くことと、詠むことと〉というコードを加味して読むと、手酌という言葉に上司も部下も無礼講であるという意味合いを読み取りたい。また、手酌をすると出世しないという俗信もあるため、「○○さん、手酌はいけませんよ、出世できませんよ。」、「いいんだ、俺は出世なんかしなくても。」といったようなやり取りも想定に入れたい。そんな砕けた会にこそ主体はいかすみのあたりめを摘まみたい。それは珍しく通好みの珍味で、食べたら口の中が真っ黒になり、気の置けない仲ではないと遠慮してしまう逸品のためである。仕事の一場面というコードにより、歌の可読性や読解の幅が増した。
船形のバスタブ寒し もうもうと湯を浴びながら捻るトリック 山口文子
「さんごじゅ」Vol.8にはエッセイも収録されている。エッセイによると山口はフランスに移住し、現在は文筆業や、夫の映像制作業のサポートをしているとのことだ。〈船形のバスタブ〉は西洋の浴室という感じがある。標題は「ミステリー」だが、船形のバスタブの置かれる浴室は事件現場のようでもある。ミステリーのトリックを模索したり組み立てたりするときは、常に思いを巡らせながら巧妙なトリックを考えるという歌であろう。トリックの思案が勝り、入浴どころではなさそうだが、何か浴室で掴めそうな感じもある。
フルタイムで仕事をしているならば、一日八時間、週五日、それに費やす。それだけ時間を費やしていれば十分で、どんな業種職種でもその道のプロであることには違わない。日々、内面化している職業的営為も改めて捉えなおすと、日常生活とは異なる点があり、時に歌の題材になる。窪田空穂が「知性的に、多忙と機械化とを必要とする社会生活は、各人が全身全力を傾けた生活でなければならない。文芸はその基本条件として、さうした生活情調に親しいものでなくてはならない。」、人事詠は「現実生活の反芻であり深化である。」(窪田章一郎『窪田空穂』一九六二/桜楓社出版)と述べており、「知性的に、多忙と機械化とを必要とする社会生活」という点において現代の複雑化した社会生活においても同じようにいえよう。むしろ戦後復興期の働き方に比べると現代人の生活のほうが脱商品化しているかもしれない。いずれにせよ社会生活に親しい文芸的態度が空穂のいう人事詠(職業詠も含)の定石であり、そうした歌は「現実生活の反芻であり深化である。」という。
筆者は「さんごじゅ」Vol.8を読み、空穂の言葉をやや飛躍させ、仕事は吟行であり、給与が発生する有償の吟行であると考えたい。となるともはや筆で飯を食っている状態といっても過言ではない。なんとも、夏目漱石の小説にみられる高等遊民のようである。職業詠にはロマンがある。