沖ななも歌集『木陰の思想』を読む

 蜜柑の皮むきつつ思うメルカトル図法のなかの日本のかたち

住職も子どもから見ればパパにして呼ばるるパパはTシャツを着る

 メルカトル図法は、よく目にする平面の世界地図の図法である。グーグルマップでもズームアウトし続けるとメルカトル図法になる。ただ、ほぼ球体の地球を平面に表現するのは無理があり、面積や距離にゆがみがでる。最近、イコールアース図法が国連で採択されるなど、次第に世界地図も変わってゆくのだろう。蜜柑の皮をみて日本を想起したという歌であるが、メルカトル図法を敢えて使ったのは何故だろう。よく目にするからだけではないだろう。例えば先述のように地理学的に面積や距離にゆがみがでるように、国際関係上も面積や距離にゆがみが生じることをメルカトル図法に象徴させているように読める。そう読むと、社会詠の一つにも読めるがあくまで暗示に留めており、社会詠であるとは断言できない。その絶妙な歌の在り方は、一筋縄では読めず、読者をニヤリとさせるであろう。二首目は四国霊場巡りを主題とした連作のなかの一首。金剛杖をつきながら名刹を巡るなか、住職の生活者の面を見る。寺院の建築や仏像ではなく、引用歌のように視点を外すのは歌人の性といった感がある。歌集前半の歌から、沖の到達した歌境が垣間見え読み応えがある。

たおやかな声にて「お風呂が沸きました」われに話しかけくる唯一

信号が変わればまっさきに歩み出すそういう人には金輪際なれず

 孤を感じる歌もある。時に孤独、時に孤高といったところであろう。一首目は給湯器の音声である。初句「たおやかな声」や、結句「唯一」と給湯器を擬人法的に形容する様は、やや自己戯画の作用がある。生活感やリアリティのある歌も歌集に収めたかったのだろう。二首目のように、信号が変わり我先に歩き出す人はやや誇張して見ると、自我に忠実であったり、要領よく生きていたり、時間に追われたりする人だと捉え得る。なかにはただ遅刻して焦っている人もいるとは思うが、普遍性には欠くのでここでは考えない。例えば、その要領よさも幸福につながるとは限らず、策士策に溺れるというように、その要領よさに起因する拙速さにより失敗することもあるだろう。そのようには主体はなれないし、なるつもりもないという歌である。抑制された文体と、韻律も無理ないためさらっと読めるが、「金輪際」に揺るぎなさがある。卑近な場面の例示によりわかりやすく、境涯詠のようでもあるが、大上段に構えず読める。

さりながら人の寿命はわりきれず癌の長生き健康の事故死

人には格という言い知れぬものありて言いようもなしこればっかりは

 帯文に〈何人と会ったのだろう何人と会えなかったかこの世に生《あ》れて〉が引用されており、先述した境涯というのも歌集の主題の一つであると思う。一首目は多くの人の死に接して生まれたであろう抒情である。歌意としてはまったく歌の通りであるが、歌には時間が籠っている。二首目も歌のとおり、多くはないが格を思い知らされる人はいる。「こればっかりは」は自分自身の格の大小も悟っているような言いぶりである。「こればっかりは」という言葉は、筆者のような四十歳にも満たない者がいうのとは重みが違う。最後に好きな一首を引用したい。

大根は天日いただき補陀落を見て来ましたというような風情