双眼鏡からみえるもの 山田富士郎歌集『商品とゆめ』を読む

 あとがきで山田は資本主義と芸術について触れている。商品の変遷と短歌のビジネスチャンスとしての可能性についても示唆している。社会的状況においても、歌壇の状況においてもそうした商品的な雰囲気のあるなかで、ゆめについては細かく言及されていない。さて、歌を読んでいこう。

   (津久井やまゆり園、19人死亡26人負傷)
  効率を追つてここまで来しわれらわれらの子供植松聖は
  売却され十字架はなしルター派の質素なる教会歯科医院となる

 一首目は津久井やまゆり園の殺傷事件を題材にした歌。植松被告の異常性や、障害者に対する潜在的な悪意があるのではないかという社会不安が広がった。植松被告が全く異常だということならば、異常だと一蹴し、加害者の思想にあまりフォーカスは当たらないだろう。しかし、メディアに多く取り上げられたということは、一蹴できないなにかがあるからだ。その何かのひとつを引用歌はいってしまっているのかもしれない。二首目も資本主義が文化を駆逐する一場面だ。歯医者は資本主義的かといわれると、医療は社会保障に分類されるので必ずしもそうとはいえないが、歯医者はいまやコンビニより多いといわれたりするほど増えており、準市場色が強くなっている。ここでコンビニを詠みこむとベッドタウン寄りの景がたつが、ベッドタウンよりさらに都心から離れるとやはり歯科医院なのだろう。

  白鳥を食ふゆめこのあき二度目にて煙草すふゆめいまだ見ずけり
  ‎川底にまどろみをればつんつんと魚がつつくきみの乳首が
  ‎ローソンに雉子《きぎす》弁当買ふはゆめ妻と入りゆくローソンも夢

 ゆめの歌を引用した。ゆめなので幻想的なのは当たり前だが、どの歌も幻想的で不思議な詩性がある。一首目は白鳥を食うというのだが、エロスを感じる。山田はバードウォッチャーなのだが、この白鳥はエロスからの投影のように読める。二首目も美しい歌である。心象風景として片づけられないのは歌集全体で、〈赤啄木鳥《あかげら》か大赤啄木鳥《おほかげら》のドラミング倒木おほき右のなぞへゆ〉や、〈‎飯豊には熊多きゆゑ南部鉄もてつくられし鈴を買ひたり〉など美しい自然が詠み込まれているからで、歌集全体の雰囲気がこの歌に説得力を持たせる。三首目はローソンや妻など卑近な対象が登場する夢だ。夢がマトリョシカのように重なるというコンセプトは映画『インセプション』にもあり、面白くもよくある主題だが、ローソンや妻といった身近さが、新鮮味を与えているように思える。また、雉子弁当のモチーフも同じことがいえると思われる。

  ‎この町に必要なのは欲望だ割れた瞬間の硝子のやうな
  ‎そちらでは滅ぶのは何送電線のこちらで死ぬのは集落と田
  ‎ロボットの介護に終はる人生は似合ふかもしれぬ上野千鶴子に

 また、社会詠も鋭い切り口で歌集の特徴ともいえる。一首目は、二首目のような滅びゆく地域についての歌だが、産業や若手の人材ではなく、欲望というのが詩人の目線である。プラグマティックなものではなく、欲望が足りないというのは言えているのかもしれない。二首目は痛切である。電力や人材が中央に搾取されていくのが不条理である。が、筆者含め関東で恩恵を被っている人間はなかなか言えない。送電線が糸電話のようになって都会に呼び掛けているのだろうが、また都会でもなにか滅んでいるという認識は、中央と地方という二項対立ではなく、お互い何かしらの痛みを負っているという認識。三首目はクスりとした。もしかすると介護をされながらさらに書籍を出版するかもしれない。
 歌集をとおして、近現代的な批評眼と、自然と詩性というライトモチーフが、商品とゆめにあたるのかもしれないという考えにいきついた。ポストモダンなどいわれているのは一部だけで、まだモダンを超えられない問題がこの国に山積しているのであろう。実感を伴い文学はそこにメスを入れる機能がある。微細な歌が若手中心に多くなっているが、本歌集のような歌はなくなってはいけないと思った。最後に好きな歌を一首挙げる。

  ‎白鳥はつぎつぎにきて着氷す珈琲にミルク入れますか、はい
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