511本足の蛸 短歌アンソロジー「OCTO」2018を読む後編

 「OCTO」を読むの後編。歌集が何冊もあるようなボリューム感に私は読破できるのだろうか(読破はしています)。

  あとすこしといひてふたたびまへをむく頭に春はひかりをふらす 花笠海月「春の海A」
  石だつたころの記憶をけづりとり海に溶かしてくれるか波は 「春の海B」
  くちびるをとがらせ強く吸ひあげる黒タピオカをあじはふために 「sweets」
  白菜のおほきひとつに刃をいれてたてに割るそしてまたたてに割る 「白菜ツナカレー」

 一首目と二首目はタイトルがAとBあり、何か面白そうな意図があるのではないかと読んだ。が、ちゃんとその仕掛けがわかったか自信がない。最初は二人別の〈われ〉が想定されているのではと読んだ。Aのほうが平仮名が多く、韻律もア音とウ音が多く、破裂音や濁音などが少ないため、柔らかい韻律になっている。また、読むと情感のある相聞歌という印象を持つ。BはAに比べると韻律より意味に比重が乗っている。引用歌のように精神的な交わりを隠喩的に詠った歌やエロスのある歌が並ぶ。一通り考えたあとで、カセットのようにA面B面で、〈われ〉の表裏ある心理を描写しているとも読める気がしてきた。三首目の連作「sweets」は肉感的な甘味の歌が並ぶ。性愛歌ではなく飲食の歌なのだが、これは各々読むことをおすすめする。四首目は白菜ツナカレーというタイトルが美味しそうで気になる。ちなみに五首で連作は構成されており、五首のなかで白菜ツナカレーは出来上がる。料理を作るとき、こだわりのスイッチがはいることがある。そうした没頭感も〈白菜の根にちかきところそぎ切りにきてゆくいちまいいちまいはぎつつ〉などのリフレインや、〈そぎ切り〉という切り方の指定によりみられる。短歌の韻律や暗喩を活かしつつ、表現していることはかなり前衛的なのではないかと思い読んだ一連だった。

  十枚の絹《サテン》を剥げばあらわれる割礼をほどこされた魂 松野志保「ジュブナイル」
  青と黄のタイルの床に背をゆだね確かめる変声期の終わり
  少しだけ血の混じる水 薔薇であることを忘れてしまった薔薇に 「終わりのある幸福な時間」
  ウォルニッケ野に火を放てそののちの焦土をわれらはるばると征く 「われらの狩りの掟」

 連作「ジュブナイル」は少年同士の恋愛がテーマだ。一首目は詩的な言語により構成されているが絹《サテン》という薄く柔らかな手触りの生地は、魂であったり、また剥ぐという言葉の斡旋から男根も想起することができる。割礼は成人儀式で、根底に包茎の否定があると思われるが、この歌の場合はそれだけでなく、男性性を薄め、ひりひりした魂の核の部分を提示するという効果もあるように思われる。二首目は青と黄のタイルが二人を象徴している。クリムトの『接吻』で男女の模様が混ざることで性愛を暗喩していることを思い出す。三首目、薔薇の存在が薄くなっているなかに、血を垂らすというヴァンパイアを想起するような歌。薔薇はその血に蘇り香りをふりまくのであろう。四首目は、言語感覚の冴えを感じる。ウォルニッケ野は脳の言語をつかさどる部位のことで、火を放ちうる野原ではない。しかし、語感から火を放つべく野として、言語を焼いてしまう。言葉の焦土を歩いていくというところに、退廃したの知的表象といいたい風景がある。

  存在はハイデガーよりメッセンジャー、あるいは既読ラインのなかに 吉村実紀恵「東京残留孤児」
  若者の保守化を憂う団塊の世代は糧とせむわかものを
  ものづくり神話の終わりゆくさまを見届ける一兵卒なりわれは 「不時着」
  詩は常に量産される 派遣切りされた男の拡声器から

 吉村の歌はクリティカルな社会詠という印象だ。前衛短歌の手法を感じつつも、時代ごとの熱量の違いもあり、全く違う読後感があるので面白い。一首目は『存在と時間』を著したハイデガーをを引用しつつ、既読ラインに落とし込んでいる。既読の烙印をおされてしまったラインであっても、ハイデガーの哲学の考察対象になり得るのだろう。二首目はアイロニカルな視点だが、下句の〈わかもの〉とひらいたところが、糧と相まって効いている。映画『マトリクス』的な世界観を想起した。三首目は吉村の問題意識の一つが提示されているように思える。全体から世紀末感が出てるのだが、二首目のような社会保障の破綻や、三首目の経済の停滞のなかにいる〈われ〉を詠っているのだ。四首目も視点が面白い。詩は叫びや、権威への批判であれば引用歌の通りだろう。拡声器というと安保闘争も思い浮かぶが、派遣切りは今様である。また、派遣切りされた男から一歩引いて冷静に、客観的にみているところも安保の歌と違うと思った。

  哀しいか──そうとは思わないけれどわたしの肩を叩くワタシと 玲はる名
  閉ざされた扉の奥の部屋にある詩と契約と洋燈《らんぷ》の光 「エミリ・ディキンソン詩集」
  コットンのパッチワークはうつくしい わが履歴書は継ぎ接ぎだらけ 「つぎはぎローラ」
  ともだちの家に住み込む若者の描く林檎に産まれたい虫

 一首目は冒頭と一首だが、後半に〈哀しいか──そうとは思わないけれど淋しいくらいがいいかもしれず〉という一首があり対になっている。最初の一連には題名がないが、「つぎはぎローラ」と地続きなのかもしれないと思った。前後の歌にも内省的な歌が並ぶ。二首目で題材になっているエミリ・ディキンソンも生前は無名の詩人として知られており、内省的なところは共通している。連作「エミリ・ディキンソン詩集」はエミリ・ディキンソンのオマージュとなっており、エミリ・ディキンソン憑依されているような歌もある。また他の連作に〈男性の机に並ぶカップ麺・水・タブレット・Perfumeの記事〉という歌もあるが、文体を二首目と寄せているという仕掛けがありクスリとする。三首目は表題作であり、パッチワークと履歴書を比較しているのだが、履歴書と性質の異なるパッチワークを対象にする点は、四首目のカフカ的変身とも通じるところがあるかもしれない。つぎはぎローラという題名はゴシック的な魅力もあり、不全感を抱えつつ生きることの美しさを象徴しているのかもしれない。

 さて、以上で「OCTO」を読むの企画は終わり。胸を借りるつもりで鑑賞していったが、一筋縄でいかないというか、皆様に恐縮してしまうような気持ちで終えた。作風は各々全く違うのだが、時代感やその中でどう生きて表現しているのかというのは、共通項があるのかもしれない。他の世代ごとに歌人がアンソロジーを組んで比較していったら面白そうだ。

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