空と彫刻 三枝浩樹歌集『朝の歌《マチナータ》』を読む

 三枝の作品は歌集としてまとめて読んだのは『時禱集』が最初だ。「かりん」の歌集紹介のコーナーで小文を書かせてもらった。時間が違えば「かりん」でご一緒できたかもしれないとか、大学の大先輩だという印象ははじめに持っていたが、実際に読んでみると静謐な世界観で印象に残った。今回『朝の歌《マチナータ》』を読んでみて、七十年安保闘争の雰囲気と信仰、三枝の文化観が融合した、多層的で、混沌としつつ、それらが同居している歌集という印象を受けた。

  なににとおくへだてられつつある午後か陽だまりに据えられしトルソー
  情念のくもりの内にいる午後を肺腑までぬれしカミュが通る

 一首目は冒頭の連作で、〈一片の雲ちぎれたる風景にまじわることも無きわれの傷〉とともによく評で取りあげられている。東直子は『朝の歌《マチナータ》(第一歌集文庫)』(現代短歌社・ニ〇一三)で地上の現実に生きることへの決意を込めた歌、憧憬や切なさを含みながら文体が力強く心地よいと評をしている。引用歌だとトルソーがある空間据えられており、〈一片の〉の歌では傷が空にある。立像に自我を投影するような歌も同じ連作中にあり、身体の一部または自我が分裂して、心象風景のなかに彫刻のように並んでいるというような連作になっている。また、ニ首目は他の一首目とは違う連作に収められている歌だが、カミュの肺腑が濡れているという解剖的な視点がある。ここから筆者はシュルレアリスムの絵画や、アートコラージュを想起するが、三枝は巻末の「〈朝の歌〉覚書」でニコラ・ド・スタールの絵について触れ、「伝達しがたいものを表出するというところにこそ表現の表現たるゆえんはあろう。」と述べている。憧憬と切なさという言説以上に、青春の自我の分裂性や、表現と現実との乖離の痛みを作品から読み取れるのである。

  不可能の鳩を飛ばすとせめぎあう揺れ 深淵に拡散しゆき
  〈内〉から〈外〉へ翔びたつ鳩を購うと涙の銀貨あふるるものを
  円環のわれを撃ちたき兵群れて意識の表層を雪崩るる

 三枝は内面を表現するときに、精神を構造的に分析をして歌をつくっているのかもしれず、歌集内に力動的心理学様の歌がいくつかみられる。一首目はニ首目と組み合わせて読むとお互いが補助線になる。鳩は精神の動きのようである。ニ首目のように内から外へ働きかけるのはエスであり、自我が抑圧する様が一首目である。七十年安保の高揚や、自らの若々しい情熱、信仰、文化観などが混在しているカオティックな状況である。信仰という観点からだと〈賛美歌をうたう、この刻うちがわの暁闇に炎なす痛みあり〉などにも葛藤がみられる。二首目からは〈購う〉や〈銀貨〉など、エスを功利的な面で手懐けるという青春の挫折感も読み取れる。三首目は円環のわれに集る兵は意識の表層の部分に過ぎず、下句の雪崩るるで一気に上句のデモ・市民革命の情景が拭われて、暗転するような歌である。
 今回は混沌という表現をよく使ったが、スペイン革命やキルケゴールなど様々なモチーフが登場するため、並行して論じるとさらに広く細かく読める歌集である。また、七十年安保と青春という、社会的状況と個人精神史的状況が出会った、時代を象徴する歌集でもある。先の見えない社会的状況や平成が終わる今こそ読みたい。