歌人の星空 馬場あき子歌集『あさげゆふげ』を読む

  衛生のごとく互《かたみ》にありたるをきみ流星となりて飛びゆく

 『あさげゆふげ』の帯に引用歌が書かれている。雑誌に発表されたときから話題になっていた歌だが、本歌集の象徴となる一首であることは間違いない。装丁は倉本修で『渾沌の鬱』のパリッとした感じもよかったが、本歌集では引用歌に寄せて宇宙を彷彿とさせるデザインだ。文学に時空を超える力があることを信じさせられるような読後感もあった。

  遠野とは時空を超えていまにありわれやいかなる老物《らうぶつ》ならん
  歯を磨くあとどれだけを嚙み砕く力残るや朝の歯みがく
  道成寺の石段はげしく音もなく白い足袋上る誰も止めえず

 一首目は遠野物語が下敷きになっている。〈ふつたづは老獣の怪 柳田は経立《ふつたつ》と表記せりいかにか思ひし ※ふつたづに傍点〉と同連作中にあるが、老獣が超自然的な力をもつ様が遠野物語に紹介されている。口伝で伝わっている話を、柳田が活字にする際に漢字を当てたのだろう。語源はわからないが年を経て立ち上がるということだろうか。経立を人間の老いにつなげると、老いとは怪し気なものに思えてくる。そのように老いを歌う歌人はみたことのなく、ここに老いの歌の新境地がある。しかし、観念的で終わらず自らに引きつけるのが二首目で、生きることは食べること、さらにいうと噛み砕く程度のものを食べることという力強い認識がありつつも、それがいつまで続くだろうという不安も感じさせる。また、〈歯のよわきこと母ゆづり母若く死にたれば一生《ひとよ》母の歯を泣く〉という歌もあり、歯は馬場と母をつなぐキーワードなのである。また、〈は〉の音を多様しており、歌意はしんみりとするのだが、どこか言葉遊びのような面白さもあり、さらっと読み飛ばせない歌である。三首目、のっけから老いの歌などと取り上げてしまったが、「鉄輪」や「道成寺」など能の題材の歌も収められており、静かに激しい。筆者は能に明るくないが、能の鬼は引用歌のようなイメージである。本歌集では平明な言葉の斡旋ながら核心を付くような能の歌があり面白い。先の経立も鬼も情念から変異するというところが近い気もする。

  きみといふ人称少し似合はなくシャツうしろまへに着るうちのひと
  人怖づる記憶雀にあるならん空気銃少年たりし岩田さん

 夫の岩田正の歌も、馬場の視点から詠われると輪郭が鮮明にみえてくる。きみとは若い頃からの人称なのだろう。甘酸っぱさも感じるが、シャツを後ろ前に着る岩田をみてふと微笑んでいるのだ。二首目は雀の一連で、岩田自身の歌にも雀はよく登場する。引用歌では岩田は、昔は空気銃で雀を撃っていたという。一首目とともに遊び心を感じ、読者も微笑んでしまう歌である。

  梅雨明けはさうめんの季節うす切りの胡瓜とトマト浮かせてをれば
  さうめんはなだれのやうにすするものさびしいかなやしんかんとして
  むかしむかし瑞泉寺で食べたたくあんこそ本物ならんほそくしなびて

 歯の歌を引いたが、飲食の歌も多い。一首目は導入の歌で、そうめんの描写なのだが、何にもないところにも品がある。題材にも、レトリックにも凭れずにさらっと詠えるのは技だ。二首目もそうめんだが、雪崩のようにとそうめんを大きく詠っている。シンプルなそうめんのなかに幽玄な世界を見出している。三首目の瑞泉寺は言わずと知れた大下一真が住職の鎌倉の古刹だ。そこでたくわんを食べたのは羨ましい。
 他にも鬼剣舞の歌や、岩田の死を臨場感もって歌にした連作「別れ」など読みどころばかりの歌集だ。年々・日々積み重なっていく歌の境地が歌集ごとに積み重なって重厚になっていくそんな印象だ。しかし、そのなかで口語を織り交ぜ文体にかろみがあるのが近作の特長だ。