自在な水 高野公彦歌集『無縫の海』を読む

 ふらんす堂の短歌日記は作者の日記(詞書)と作品が併置され、ハーモニーを奏でている。今回は短歌日記2015高野公彦歌集『無縫の海』を読む。

  天上の胎蔵界は雪ならむ風中に立つ裸木のけやき 1/1
  酔ひ醒めの水飲むと来て冷蔵庫ひらけば火発《くわはつ》生まれの光 1/2

 巻頭の歌を引用した。詞書には正月にお笑い番組を見るという内容だったが、その一日から曼荼羅の広大さにスケールが飛ぶのが面白い。また、次の歌は自らの歌である〈原子炉のとろ火で焚いたももいろの電気、わが家のテレビをともす 『水行』〉を踏まえている歌だ。自らの本歌取りをしつつ詠むのも続けざまに面白い。また、社会を詠ったものは情勢によって変化する。自らの歌を更新することも必要なのかもしれない。

  地味系が和気あいあいと寄り合へるがめ煮旨しもれんこんこんにゃく 2/7
  遠島を味はふ如し厨にて昆布、炒子《いりこ》の出し作るとき 4/6
  次郎柿よく熟れたるを剝きゆけば体の芯に泉湧き出づ 11/12

 飲食の歌が多く印象に残っている。がめ煮は根菜やこんにゃく、鶏肉を煮たもので、筑前煮というとわかる人も多いだろう。地味系のがめ煮だけでなく、地味系の人の集まりも味があっていいのではという歌だろう。どちらもごろごろとしてでこぼことして、情味がある。出汁で遠島を味わう如しと喩えるのが巧みだ。詞書では自身で出汁を作っているとあり、昆布と炒り子を煮て冷蔵庫に入れておくと書かれており、美味しい味噌汁のために、そこを詳しく書いてほしい気もする。柿を食べるだけでも詩的に詠んでいる。年齢を重ねた上で繊細な感覚を詠む歌人は少ない気がする。年齢とともに自在の域に達すると、歌が太くなっていく傾向がある気がするが、高野は繊細さな感覚も併せ持っている稀有な歌人だ。

  コンビニの助六寿司を昼に食ひいまだ寡男《やもを》の楽しさ知らず 1/7
  一人なる夕餉を終へて俎板の使はなかつた裏も洗へり 1/31 
  自転車の灯火の先を歩く脚まをとめならむ白ふくらはぎ 7/27

 飲食という日々の営みは孤独感も反映される。コンビニの助六寿司という、仮初の手作り感のあるものを独りで食べる様は、自由気ままな生き方とは程遠い。俎板の使わない裏も洗うという律儀さも、自らに何かを課してきちんと生活をしているようである。そうした孤独にも向き合えるのが文学なのかもしれない。また、そうした孤独ゆえか女性を恋う歌も何首かあり、この歌は〈まをとめならむ白ふくらはぎ〉と詩的な表現が俗っぽさを拭い去ることで詩になっている。耽美的な意図もあるのだが、女性と限定せずに、人を恋うということも作歌動機になっているように思う。

  気温上昇、大地震動、原子の火、人の世滅びやすく人棲む 6/26
  基地移設されかかりゐる「へのこ」とは哀しかりけり陰茎のこと 9/11

 社会詠を読むと、2015年から2019年にかけて日本は良くなるどころか、2015年の危惧がそのまま形になっているだけということがわかる。気候変動といえば、2018年に「平成30年7月豪雨」が激甚災害に指定されるほどの多くの被害を出したし、2019年も土砂崩れなど起きている。少し突き放した詠い方だが、〈気温上昇、大地震動……〉などと人類史的危機が並列されると、距離を置かないと詠めないだろう。下句は箴言めいており、盛者必衰や、国破れて山河ありのような言い回しだが、かなりシビアな現実がある。辺野古は沖縄の言葉で陰茎という意味なのだろうか。形が似ている、突き出しているところだからそういう意味なのだろうが、ついフロイトを連想する。男根的モチーフに基地を移転させるということが、エスの無秩序さと結びつく。

  わが歌は人の恵みを享けし歌、師系に「秋」と「冬」が匂へり 2/23

 歌人である私を詠んだ歌があるが、特にこの歌は系譜や矜持を感じる。ここまで言える歌人はそういない。
 最後に繊細な時間を捉える感覚や、不思議で詩として印象に残った歌を挙げる。

  蠟梅の黄なる花咲きわが腕の時計三針《さんしん》しづかに澄めり 1/16
  ランドルト環うつくしく整列しこの世の鳥の声しづくせり 2/5

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む