ゆりかごを動かす手 大松達知歌集『ゆりかごのうた』を読む

 『ゆりかごのうた』はあとがきを読むと白秋の出典だということがわかるが、歌集をあらわす題名にぴったりだと思った。それは、この誕生や育児の歌が多いからというだけではない。

  それだから進化は嫌ださはされど紙のパックの〈黒霧島《クロキリ》〉うまし
  能書きを読みつつ飲めりともかくも前立腺にいいといふ酒
  人生、と言ひ過ぎるつて糾されて今宵の締めの板わさが、キタ

 飲食の歌が本歌集には多く収められている。引用した歌は、進化や人生など比較的重いテーマのなかで、ややライトなほうにバランスをとるように飲食が扱われている。黒霧島は昔は瓶に入っていたが、いまは紙パックで売られているということを進化と呼んでいる。紙パックになった無粋を嘆きつつ、結句で〈うまし〉というところでオチになっている。進化という肯定から、嫌だと否定に移り、最後にうましで肯定するという逡巡が一首に収まっているのだが、進化を紙パックと取り合わせるところに面白みがあるのである。また、前立腺にいい酒というものがあるかは不明だが、まじめに説明書きなどを読んで納得しつつ飲んでいるところにおかしみがある。その生真面目さをユーモラスに詠うには相対化しなければならず、実際ユーモアは自らに向けた厳しい視線が必要になってくる。〈人生、〉の歌は〈それだから〉の歌と同じ構造だが、下句の表記が軽やかなのと、〈人生〉と〈締め〉が縁語的つながりがあるという上手さもみられる。これらの歌は歌をとおして訴えたいものがあるのだが、それをあえて言わずに、食事でユーモラスにまとめつつ答えを留保している。それは詩としての余白でもあり、しかし自分の正義を言いきらないという慎重派な美学があるようにも思える。ユーモアのある歌のなかで〈深く酒飲めば吃れり学生のころの自分に叱られるごと〉という内省的な歌があり、ポジはネガと同じだけふり幅があることに気づかされる。

  火事を見たら赤子に痣ができること信じてなくてすこし信じる
    (500×0.8=400。)
  ペットボトル八分目まで水を入れて胎児の重さ片手で想ふ
  酸つぱい顔教へてをりぬ甘夏を食べて困つてゐる一歳に

 男性はいまはまだ出産できない。では何ができるか考えると、見守り、手伝い、考えることくらいなのかもしれないと思いつつ、しかし実際に目前にしたときはうろたえることが一番多いのではないかと思う。妊婦が火事を見ると胎児に痣ができるという迷信があり、筆者は夜泣きをするようになると聞いたことがあるが、普段は信じない。しかし、妻が妊娠していると、いやもしかすると何かしらの因果関係はあるのかもしれないなどと、少し信じてしまうという微妙な心境があるように察せられる。また、妻を慮り胎児の重さを何かで感じ共感しなければと考えるが、ペットボトルという無機質なもので図っている。寄り添いつつ寄り添いきれていないという感じが、胎児とペットボトルの距離にある。産まれる前は見守り葛藤する父が描かれているが、出産後は徐々に子との関係が芽生えてくる。〈酸つぱい顔〉を教えることは、困っている一歳児に対して、困難に対応する方法を教示したということで父としてのわれが生き生きと立ち上がってくる。

  しわくちやの顔に浮き出てゐるものをアンパサンド!と声にしてゐた
  〈太陽礼拝〉ゆらゆらとせり〈脊椎〉にある椎《しひ》の字を思ひをりたり

 読んでいて独特な感性を感じる連作に出会った。連作「アンパサンド」は&や記号から着想を得た歌は収められている。しわくちゃな顔は確かに&のような形状に皺がみえるかもしれない。しわくちゃな顔と&は視覚的に似ているくらいしか共通項がなく、顔にアンパサンドがあったとしても、「アンパサンド!」とは声に出さない。〈太陽礼拝〉の歌は脊椎のなかに椎があるという発見の歌だが、言葉を詠むことは、普段短歌に接する作者の生活詠といってもいいのかもしれない。こうした物事の認知する癖のようなものが作者の気配を感じ、独自性を感じるのである。最後に好きな歌を挙げたい。

  おまへの声を文字に写してわれは言ふおはやうアップおやすみアププ

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