羅漢になっても酒をのむ 『吉井勇全歌集』より数首鑑賞

  大空はかぎりもあらぬ眼《まなこ》もてわれらを眺む秘めがたきかな 吉井勇『酒ほがひ』

 青春性の高い相聞歌の連作の中の一首。眼は大空の雲でもなく、星や月でもない。大空に形はないが眼という円形のイメージがあったのは、見上げた半球全体が眼であるという大きな把握があるからであろう。この把握は独特で面白い。シュールレアリスムのような感覚だが、吉井勇はどのような気分で空を見たのだろう。お天道様がみているというような素朴な感覚という読みもできる。そっちで読むと伸びやかな歌でこれはこれでいい。上句でかなり工夫を凝らしていて、下句がどれだけ上句を支えられるかというところだが、〈秘めがたきかな〉は少しわかりにくい。前後の相聞歌を想定すると含羞の雰囲気が伝わってくる。なお、〈われら〉とあるが、われと君のことだろう。人類や市民まで広く読むことはできなくもないが、連作の雰囲気がそがれる。また、秘めた恋であるとも読めるので、逢引の気持ちの高まりも伝わってくる。

  いにしへはころべころべと絵を踏ますいまたはむれにわが足踏ます 吉井勇『酒ほがひ』

 転びキリシタンという言葉がある。デジタル大辞林によると「権力に屈して、キリシタン宗門を捨てた信徒。特に、江戸幕府のキリシタン弾圧政策による宗旨糾明・拷問の場においてキリシタン信仰を自ら否定した者。」とあり、江戸趣味の暗い部分であろう。かなにひらいてありゆるやかな韻律であるため深刻にはなっていない。下句で明治時代の今に転じるのだが、たわむれにわが足を踏ますというのは御座敷遊びなどでからかい半分で踏ませるということだろう。キリシタンの厳しい拷問に比べると牧歌的というか、耽美的というかである。たわむれに足を踏ませているときにも、踏み絵の暗さを想起しているところに風流人のどこか飄々とした雰囲気を読みとれる。ただ、吉井の時代と現代では時間がだいぶ隔てられている。今よりも踏み絵は近い時代のものであったし、遊びの機微ももっとリアルに息づいていたはずだ。そう思うと筆者はこの歌の根底に流れる気分は掴みきれないのである。

  東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹《じんたん》の灯よさらばさらばと 吉井勇『昨日まで』

 仁丹の看板が東京に大きく出ていた時代の歌。仁丹はいまは薬局でも探さないとないものだが、二世代前までは仁丹が流行っていた。そうした看板も当時は都会にしかない。いまだと仁丹はレトロな感じがして雰囲気のいい言葉のように思うが当時は都会らしさの象徴であったのだろう。仁丹のパッケージは仁丹のウェブサイトによると「仁丹のトレードマークである「大礼服マーク」の由来についてはさまざまな説がある。発売当時は伊藤博文の長男文吉ではないかとも言われ、また、森下博自身がモデルになったともされていた。」(森下仁丹商標、https://www.jintan.co.jp/special/museum/logo/、最終閲覧日二〇二〇年一月十一日)とある。その人物に仮託して寂しさを詠っているところが面白い。近代小説はインテリゲンチャや高等遊民が華々しく、少しカビ臭く多く登場するが、吉井自身もそうした文学者としての自覚があるのかもしれない

  由井が浜藻屑もわれを歎かしむ君が黒髪まじりぬるかと 吉井勇『昨日まで』 

 大海の一滴されど……みたいな歌である。このウエットな感じは耽美派ならではで、近代小説などでも一つの様式美としてある。しかし、短歌で徹底しているのは私の知る限りでは吉井勇くらいではないかと思う。現代からみると上句も、特に下句も過剰だが、それくらい突き抜けているほうが読み手としては面白い。この歌を本気でそう思ってるかどうかで、読みはわかれると思うが、『吉井勇全歌集』の解説にあるように吉井勇は型の歌でもあり、耽美派の感覚を楽しめばいいと思う。〈舞姫の文殻《ふみがら》などもまじるゆゑ加茂の水屑《みくず》はうつくしきかな 『故園』〉という歌も後期にあり、後期は比較的超然とした歌が多いのだが、初期の耽美的な世界も残っていることがわかる。

  かにかくに祇園は恋し寝《ぬ》るときも枕の下を水のながるる 吉井勇『祇園歌集』

 一番有名といっても過言ではない歌だろう。短歌をしていない人も〈かにかくに祇園は恋し〉と上句を諳んじているひとは多い気がする。これは上句の韻律と、全体であまり意味がたくさんはいっていないところにより愛唱性があるということだろう。ゆったりと始まり、韻律も相まって祇園の町並みや川床が読み手の目の前に浮かんでくる。そして下句で枕に寝ているわれが登場して、静かにその情景を暗闇の中の音の世界に収束させる。こうした衒わない工夫が隠されているので、多くの人が楽しめる歌になっているのだ。

  白秋が生れしところ柳河の蟹味噌《かにみそ》に似しからき恋する『鸚鵡杯』

 水の都市柳河が美しく語られるのは北原白秋の『思ひ出』などで「私の郷里柳河は水郷である。さうして靜かな廢市の一つである。」とある。そんな美しい土地に足を運び、Gonshan(良家の娘)に恋をしたのかもしれない。旅先の恋でGonshan相手では辛き恋になるのはうけあいだが、蟹味噌に似たという比喩がユーモラスだ。旅先の思い出話の一つなのだろう。

  火桶の火乏しけれどもすがすがし竹を語れば寒けくもなし『玄冬』

 吉井勇の後期の作品は文人趣味のある。羅漢や文人に思い寄せしていくのである。生活のゆとりは食はもちろん、炭に影響してくる。囲炉裏や土間の時代のため炭は季節問わず必需品である。炭を節約しつつも青々とした竹を語るとすがすがしいのである。物質主義から精神主義へ価値観が移っていることをこの歌でいいたいのである。吉井は寒けくもなしでいいのだが、付き合わされている妻はたまったものではないだろう。

  君が家《や》の初釜《はつがま》いかにわが廬《いほ》の古鐵瓶はさむざむと鳴る『残夢』

 君の新たな生活を寿ぐ歌である。初釜と古鐵瓶という道具立ての対比だが、新旧の対比だけではない。釜は飯を炊くもので、いかにも夫婦で囲炉裏を囲んで飯を食う様が思い起こされる。一方で、古鐵瓶は急須であり、老いた吉井夫婦が茶を飲むのであろう。釜はことことと鳴り、鐵瓶はかたかたと寒くなるのである。下句はさめざめとした感じに読みたくない感じがするが、結句をみるとやはりそう読まざるを得ない。上句で〈いかに〉で切れるところが充実感がある。抒情としては充実感と、わが身の寂しさが同居する歌である。

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