じわじわ感じる かりん集(「かりん」二〇二〇・六)を読む

 コロナ禍により結社誌の発行においても、在宅で校正をしたり、オンラインでやり取りしたりと試行錯誤や大変な苦労が埋め草で窺い知れる。編集に携わった方々のことを推察すると6月号は読んでいくにつれじわじわと感じるものがある。一方で、作業がリモート化していけば平日日中は生業がある筆者でもお手伝いできるなという期待もでてきた。閑話休題、本記事でかりん集のうちから何首か鑑賞してきたい。

  空気のなかにさくらは揺れて空気からはみ出ぬようにひとは死にゆく 中山洋祐
  どの公園も緑に覆われ生き物は密集しながらひかりを浴びる

 中山作品は着想は新型コロナウィルスだと考えられるが、感染症や社会的影響のような俗っぽさを詩性でろ過しているようだ。空気のなかにの歌は、さくらやひとの取り巻く空気・空間を見ている。コロナ禍で普及した社会的距離のような概念や、心理学でいうパーソナルスペースとも違う。さくらやひと、その他ありとあらゆる生物が生きる霊的空間のことをいっている。どの公園もの歌も、三密を避けるという標語から着想を得ているが、それ以上に人類だけではなく、ありとあらゆる生き物は密集しているといっている。迎えすぎかもしれないが、新型コロナウィルスもその中に入っているのかもしれない。

  石を拾う三人の影立たしむる雨後のひかりを均す潮風 辻 聡之
  西の風風力3の快晴のラジオ短波がいまも聞こえる 檜垣実生

 辻作品は海の連作になっている。初めてふぐ刺しを食べる歌や、クラゲが死を予感する歌もある。引用歌は生者が出てくるがどこか死の翳りもある歌である。三人は影として描かれており、両親・本人、本人・妻子、友人三人など様々な想定ができる。しかし、連作の構成や意図を察すると家族と考えるのが妥当だろう。両親・本人、本人・妻子どちらでも読めるという意図があるのかもしれない。石を拾うというのも、実用的な意味をもたない詩的な行動であり、下句の風景描写と相まって表現派の絵画のようでもある。あえて影にしたのは、世代ごとの生と死の連続性を示唆しているのかもしれない。檜垣は故郷の海を多く詠っている。そのなかでもラジオ短波というノスタルジックな題材を扱っている。<西の風風力3の快晴>というのはまさしく良い日の典型で、こう表現されると読者にも心地よい潮風が吹いてくるようだ。辻の潮風は表現派の画家の筆のタッチを思わせるが、檜垣の潮風は暑さや潮の香りを伴ったリアルな潮風を感じる。アプローチは異なるがどちらも読後感にある手触りを残す。

  コロナ禍の迫る夜に食む短角牛 歯の立たぬ固さ友と笑えり 光野律子
  数独のひとつのマスに数ひとつかくなる居場所われにあれかし 喜多紘子

 巣ごもり消費や外出自粛というのも、コロナ禍詠のテーマである。自室という限られた空間でも、想像力やユーモアがあれば歌はできると思わされる歌を引いた。光野作品は情景はよくある食事の風景だが、ロマンのある言い回しである〈短角牛〉を起点にして、下句でオチをつくっている。ロマンとユーモアという王道のつくりである。牛や牛肉など言い方があるなかで短角牛を選んだのはより牛の存在感を際立たせる意図があり、連作中の他の歌には絵画をモチーフにした歌もあり、ピカソが好んで描いた牛もどこか思わされる。喜多作品は数独のマスに入るべき数字がある必然性を詠った歌である。自らの存在の希求というのは近代文学的なテーマだが、ひとはいまだに克服できていない問題でもある。数独自体も閉じられているとともに、内面に意識が向きがちな遊びでもある。コロナ禍でジグソーパズルの売れ行きが好調というニュースを目にした。また、コロナ禍をきっかけに結婚や離婚を決意したひともいるようだ。数独やジグソーパズルは自宅での遊びとともに、自らを見つめなおすいい道具なのかもしれない。
 本文の序盤に述べた「じわじわ感じるもの」だが、岩田先生の仰っていた「文学は手作り」ということなのかもしれない。また聞きなので若干ニュアンスは違うかもしれないが、そう思った。

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む