手相見がいる町 藤島秀憲歌集『ミステリー』を読む

 父母、妻、ときに祖父母ととにかく家族が近くにいる歌集だと思った。回想の歌もあるので別れのあとでも、夢や思い出で歌に登場するのだが、われの人生や歌のなかに家族が内在化されているのような印象をもった。

  父が建てわれが売りたりむらさきの都わすれの狂い咲く家
  あっいまのもの言い父のもの言いだ わたしの中に父育ちゆく

 とりわけ父の歌が多い。他の歌を読むと父に対しては複雑な心境を抱いていそうなのだが、父を拒むことなく受け入れているのが印象的だった。しかし、ただ手放しに受け入れているわけではない。一首目は不動産が相続されて、ライフプランに沿って売られていく順当な流れのなかで、狂い咲く都わすれが印象的だ。狂い咲くという現象と、都わすれという含みのある名前に乱れた心境があらわれている。序盤にある歌なので読み流してしまうのだが、二周目あたりからこの歌の重要性に気づく。二首目は直接的な歌だが、口語的な表現をすることで、父がわれのなかで育っていることを受け入れるような歌である。

  わが部屋を君おとずれん訪れん座布団カバーを洗うべし洗うべし
  強い人にはなりたくない 玉葱は水に三分さらすがよろし

 本歌集を読んでいてわれに好感をもつ読者も多いように思う。それは他者に真摯に向き合っているからである。わが部屋をの歌は、付き合っている君が自宅にくるときの歌だが、不器用さがリフレインで表現されている。不器用さといいつつ自然にそして、技巧的にわれが立ち上がってくる。玉葱の歌のように辛味や匂いがほどよく抜けた人物をわれは望ましいと思っているのだが、そうした人物像を歌を通じてつくりあげている。

  たよりあういのちふたつが一匹の鯉の生みたる波紋を見詰む
  長すぎる昼寝した日の長き夜 春のかぶらは漬かりつづける
  手相見を町から消した夜の雨わが票がまた死票となりぬ

 先程、「自然にそして、技巧的に」と筆者は述べたが、家族やわれの歌などテーマから少し離れた歌であってもその傾向はみられる。たよりあうの歌は、読者は一匹の鯉の方に目が向くが、その目線はわれの目線である。読者はわれの目線に誘導されて、われと君の物語に引き込まれるのである。長すぎるの歌は無聊な歌であるが、かぶらの漬物という生活感覚のあるモチーフが無聊とは別なわれを立ち上げる。次の歌も同じように、われの支持する候補者が負けるという上手くいかなさと、手相見が出てきて、それが夜の雨に消えるというローカル感の二つが滲み出ている。また、手相見というどことなく謎のある存在が町のちいさな都市伝説であり、それが消えていくという社会学でいう脱魔術化の歌とも読める。
 家族詠が多くストーリーテラー的な要素もある本歌集だが、何周読んでも面白さが続くのは衒わない技巧や、真摯な抒情といった短歌の王道のような歌が多いからだと思われる。本歌集を読むと散歩したり、家族と話したくなる。

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む