魔術師のもつ宇宙

今野真二著『北原白秋―言葉の魔術師』
魔術師のもつ宇宙
 北原白秋といわれ真っ先に思い浮かぶのは「桐の花とカステラの時季となつた。」や、「短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である」といった「桐の花とカステラ」の一部である。白秋は短歌だけではなく童謡、象徴詩、紀行文、また短唱と多様なジャンルで名作を残している。その膨大な仕事に向き合うのは至難の業だが、本書は『邪宗門』や『桐の花』を中心とした考察や、詩集と歌集の比較とテーマを絞り白秋の言語宇宙を俯瞰している。
 本書では周辺の作家の評や、作品を補助線として魅力に迫っている。私は「われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。」から始まる絢爛たる言葉のシャワーを前に挫折したことがあるのだが、木下杢太郎は「「邪宗門(原文ママ)」の詩は主として暗示(サジエスシヨン)の詩である。感覚及び単一感情の配調である。」とし、「読者は各自の聯想作用を此織物に結び付けなくてはならぬ。(中略)故に「邪宗門」は一方に未完の詩の集であるといつて可い。」と読みの補助線を引いている。今野は想像力がない人間は『邪宗門』は永遠に未完のままとなり、また想像力をもった人間のみが、自己の「千一夜」として『邪宗門』を簡潔させることができるとしている。また、〈かはたれのロウデンバツハ芥子の花ほのかに過ぎし夏はなつかし 北原白秋『桐の花』〉の〈かはたれのロウデンバツハ〉とは、上田敏『海潮音』所収のジォルジュ・ロオデンバッハの「黄昏(たそがれ)」のことで、『海潮音』から影響を受けていることを指摘している。
 白秋作品はジャンルが異なっていても、心的辞書に基づいてイメージを言語化したものである。「水ヒヤシンス」を例にとると、『思ひ出』所収の詩の一連「そも知らね、なべてをさなく/忘られし日にはあれども、/われは知る、二人溺れて/ふと見し、水ヒヤシンスの花」と、『夢殿』所収の「草家古り堀はしづけき日の照りに台湾藻(ウォーターヒヤシンス)の群落が見ゆ」があるが、今野は「変奏曲=バリエーション」ととらえる読み方もできるのではないかとしている。また、『白南風』所収の「架橋風景」と、『海豹と雲』所収の「架橋風景」においても題材や語彙の共通点を指摘し、対応関係にあると述べている。共通項があるゆえに詩型による表現の差異が明確にあらわれており、横断的に読まなければ知りえない味わい方である。
 今野は結びの最後に、網目のようなことばのネットワークを読み解いていくことが、白秋の作品を読むときの最大の醍醐味ではないかと述べており、私は改めて『邪宗門』を敲くのだった。
(岩波書店・八八〇円+税)
「かりん」(二〇一八・一)所収

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