赤き火も春風も 塩浦彰著『評伝 平出 修 而立篇』(新潟日報事業社/二〇一八・九)を読む

   柳には赤き火かかりわが手には君が肩あり雪ふる雪ふる


 新潟県に引用歌の歌碑があるらしい。本書では〈火〉は男女の心身の炎火であり、柳は遊郭のモチーフだと読まれている。また下句はともに寝ている場面で故郷ロマンと割りきるのは早計だという解説から始まる。平出修は法律家と文学者の二足のわらじで歩んできたことと、大逆事件の弁護を勤めたことで有名だが、「明星」の他の文学者に比べると文学の文脈では語られる機会が少ない。本書は平出修の三十歳までの評伝であり、文学に接近した経緯や法律家になるまでの過程、世間の評価と自己の奮闘ぶりが、つぶさな研究・調査であきらかにしている。

 平出姓は婿養子になったあとのもので、児玉修として幼少期は過ごしたようだ。名家の出で学力も秀でいたが八男ゆえに自活する生き方を意識せざるを得なかったらしい。そこから教員という進路に行き着く。修は櫻井家に一度養子に出るのだが、櫻井家は商家で商人の修養は受けるが進学させてもらう気配はなく、その意図を察してか児玉に戻るという出来事がある。波乱万丈な幕開けではあるが、この商家の経験が、同じく和菓子屋ではあるが、商家出身である与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」をかけて、大町桂月と対峙したことにつながっていると塩浦は考察している。

 本書を読んで興味深かったのは新詩社の入会と、平出ライとの結婚が同時期だということだ。そしてその後にライの兄である弁護士の平出善吉の勧めで法律家への道に舵を切る。給与のベースアップや善吉を手伝うためという意味合いもありそれぞれ関連しているものだが、同時期というのがまさに二足のわらじ的である。法学書生ながら『法律上の結婚』や、東大七博士が日露開戦を促す内容であるとされる建白書を政府に提出した事件に対する批判である「七博士の行動を難ず」を発表した文筆の充実ぶりは、平出善吉の「越後日報」の創刊という発表の場ができたという追い風や、文芸家としての素養があったからだといえそうだ。また、世間の風潮に流されずに婚姻制度や建白書にメスをいれる姿勢は不条理を許さないという修の個性がでているともいえる。


  花にすぎ小草たづねて世の塵に春風軽う吹くも情けか


 塩浦は小草とは民でそこに春風が吹いている。情けは『法律上の結婚』等に記されており、女性に権利の自覚を促している歌だと述べている。女性に特化しているということは一首からはわからないが、法律家の目線で社会をみたときの抒情ではありそうだ。『逆徒』などは直接的に法廷を小説の舞台として出現させているが、歌はもっと間接的に法律家の視点が表現されていることがわかる。

 さて、「君死にたまふことなかれ」の論争に関して晶子は「ひらきぶみ」で弁解するのだが大町の気焔は収まらず、鉄幹と修で大町のもとに乗り込むことになる。修は巧みな弁論で大町を追い込むのだが、内面では「優れた憲法感覚」を醸成する機会でもあった。この論争について、塩浦は言論の自由保障の予備的闘いであり、大逆事件に通じるものがあると述べているが、文学的な主張は大町には通じず、法的な思考ではなければ大町に話が通じなかったという消極的背景もあるだろう。

 本書は修の人生だけではなく修からみた新詩社に関するものでもある。明治三八年の新詩社演劇會にも触れられている。啄木が俳優をやりたがりながらも、舞台の裏で月を出したり波の音をしていたらしい。裏方に回りつつも気障な物言いだったところが面白い。さて、本文で短歌を二首引用したが、一首目は耽美的な作風である。歌意のほかに赤き火と雪の色彩的な対比も美しい。一方で二首目はリーガルマインドが隠されている。下句は歌謡のような愛唱性もあり、小草に象徴されるような大衆に寄り添った文体ともいえそうである。散文や活動では時代に流されない公平性がみられる一方で、修を考える際には歌だけでも散文だけでも語れない。双方に目を向けて修がどのように時代に対峙してきたかを想像する楽しみがある。

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