空穂の読み方 臼井和恵著『最終の息のする時まで 窪田空穂、食育と老い方モデル』を読む

  「空穂はいいぞ」は「茂吉はいいぞ」や「白秋はいいぞ」とはまた違ったニュアンスで言われるような気がする。空穂は文学上の歩みだけではなく、それと並行した自身の人生を辿ることでより歌を味わうことができる歌人だからなのかもしれない。空穂は家族との別れに何度も直面する。母の夭折、一年にも満たない養子縁組、妻藤野との死別…とさらに続くのである。そうしたネガティブなライフイベントは歌にも反映され、藤野の挽歌集である『土を眺めて』や、次男の戦死を詠った長歌「捕虜の死」で結実する。

 今回紹介する臼井和恵著『最終の息のする時まで 窪田空穂、食育と老い方モデル』(二〇二〇・三/河出書房新社)は人生を味わい尽くした窪田空穂の歌を取り上げながら、第一部では超高齢化社会を迎えている現代から見た老い方のヒントを見出す「男の老い方モデル――歌人窪田空穂の場合」と、空穂の飲食の歌を取り上げながら講義調で空穂流飲食との付き合い方を模索していく「窪田空穂「食」の歌に学ぶ食育」を展開する。第二部は新書簡や未発表草稿・小説、日記を通じて空穂の養子縁組を中心に論考して、空穂と養子先の清世との関係について解き明かしていく。第一部は空穂の短歌に新たな光を当てて魅力を再発見する構成で、第二部はいままで日の目をみなかった文章を通じて空穂の微妙な家での立場や心理を考察するというどちらかというとマニア向けの内容となっている。


  笑ふこと忘れしごとき老ふたり夜をテレビ見て声立て笑ふ 『去年の雪』

  最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり 『清明の節』


 極論だが晩年の歌集を開いてどの歌を引いても空穂の老いは見事といえる。空穂の晩年の歌は三省堂の『現代短歌事典』でも、岩波文庫の『窪田空穂歌集』のあとがきでも評価されている。歌人にとっては、老いて歌が冴えていくということに興味が湧くであろう。「感性が枯渇する」という言い回しがあるように、ときとひとにより感性は有限資源なのである。歌人ではなくてもよく老いることは興味深いことである。本書の「男の老い方モデル――歌人窪田空穂の場合」では晩年の歌だけではなく、先に述べた家族との関係や別れをどのように詠ってきたかでは臼井はが歌を鑑賞しながら論が展開される。


  湯げかをる柚子湯《ゆずゆ》にしづみ萎《しな》びたる体《からだ》撫づれば母のおもほゆ 『丘陵地』


 そのなかで「空穂と母」の章で臼井はこの歌に言及して「歳を取って、肌もシワシワになった老人空穂が、柚子湯にしずみながら、自分を産んでくれた母への感謝を想う歌である。母への感謝は、空穂自身の一生に対する肯定感情に根ざしているといってよいであろう」と述べており、空穂の人間主義を模索するのに重要な視点になるように思える。

 空穂は妻藤野と死別したのちに、藤野の妹である操と再婚するのだが、すれ違いがあり離婚してしまう。本書では長男が病気のことを歌った〈この憂ひ語らじとしてわがをればいはむことあらずかたはら人に〉や操が空穂に宛てた手紙やを引用しつつ、操との年月は空穂にとって試練であり、人間洞察を深めたと述べている。操との関係性を紐解く資料は少なくわからないことが多いようだが、手紙や空穂の日記を見る限りでは仲に根本的なひずみがありそうだ。藤野と死別し操と生活を送るという大きな変化のなかで、子どもたちの病気も重なり余裕がなかったようだが、手紙を見る限りでは操も空穂も心理的葛藤や、仲睦まじい時間もあり、一概に仲違いを起こしているとはいえないのである。しかし、結果的に操が家を出る形になってしまうことに関して、臼井は操の微妙な立場に同情している。


  妻が蒔きし椿《つば》の実椿《つば》の木となりて濃紅《こべに》白たへ花あまた咲く 『清明の節』


 臼井はその他にも子どもの病や死について、銈子夫人についても触れている。銈子は操の次の妻で空穂の最期まで生活をともにする妻である。この歌の椿に妻へのねぎらいの気持ちをこめていると読んでいる。空穂との間に子がいなかった銈子は夫であり歌の師として長く空穂を尊敬し付き添っていたと臼井は論じている。章の終盤には空穂の生き方から人生の肯定、老いても艶をもつこと、自然を愛することがよく老いることであると臼井は結論付けている。ヒューマニズムに根ざし、山岳などの自然に親しんできた空穂は結果として一般的にみてよい老いを迎えることができたといえる。しかし、家族の別離をひとより多く経験した歌人であり、その時々に深い苦しみがあった。そうなると人生に良し悪しなどないのではないかと筆者は思うときがある。本書の歌を引きつつ歌人を語りながら生き方を論考する切り口はユニークで、短歌を通じて人生について考えさせられるきっかけになる。また、短歌が文学論だけに終始せずに生活科学まで及ぶ可能性を示唆するものでもある。他の章では食育や夫婦関係にも言及されており、文学のさらなる応用領域を予感させられるものであった。今回は「男の老い方モデル――歌人窪田空穂の場合」を中心に紹介したが、また別の記事で本書の魅力に触れられたら幸いである。

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