私と私’

  詩的という言葉には少し距離のある歌をつくっているつもりだ。どちらかというと近代からなされている作中主体と作者の視座が近く、われに幾重にも歌をまとわせていき作品を成す方法だ。一方で、詩的というと繊細な感性や、深遠なメタファー、絢爛なボキャブラリーなどが輝いたり、透明にひかったりするイメージである。

 「短歌」(角川文化振興財団/二〇二〇・十一)で井上法子が「青年の主張」で「うたの世界のひととお話するとき、書くわたしと生身と、たましいのディメンションは同じですか?という漠然とした質問をしてしまいます」と述べている。作中主体と作者がイコールである歌の理由がわからなかったり、そうした歌を扱うときの歌会が苦痛に感じるときがあるらしい。あくまで問題提起に留まっているが井上の文学のスタンスとは相容れないところがあるというのが正直なところだろう。

 主張とあるように論ではないため結論はない。短歌にも記録性があり、作者と作中主体のたましいのディメンションが同じであっても、懸命な人生に裏付けされた歌は胸を打つものがあるし、逆に実景にこだわりすぎて歌が台無しになっている歌も数多く目にする。また、震災詠においても、現実におきていることがあまりに非現実で事実の提示で際立った表現になってしまう歌や、被害の厳しさが痛いほど伝わってきて衝撃的な読後感のある歌など数々の優れた歌に出会った。また、大きなテーマがなくても、たましいのディメンションが同じひとは自分の生を歌うことに意味があるのだと主張するだろう。

 さて、たましいのディメンション同士が適度な距離を保っているひとは何を主張するのだろう。ずばり筆者なのだが、芸術至上主義にもなれず、自分の生も謳歌できずにいるので困ってしまう。生活をする私に短歌をする私’が添っていると主張することはできそうだ。江戸川乱歩の「うつし世はゆめ夜の夢ことまこと」のように太陽と月のような関係でもなく、『ジキルとハイド』や『ドリアングレイの肖像』のような霊的な次元で私に私’が添っている感覚である。問題は私’が寝坊癖があるということである。

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