雪 朱里著『書体が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』を読む

 活版印刷の書物を手にしたときに、印字の凹みや微妙なずれ、ときに活版印刷ならはの文字がひっくり返ってしまうような誤植を味わいと捉える。書物が経てきた時間や当時の時代感が凝縮されているような心地になるのも一因だし、活版印刷ならではの手作り感によりハンドメイドの一品ものを手にしてたような気持にもなる。普段の生活はほぼデジタル印刷の書物しか触れないが文芸の本だと出合うことが多く、奥付の現存しない版元をみてまた気分を良くする。本書は雪が活版印刷史について、社史や業界紙、自費出版的な個人史などを閲しながら裏付けており、恐るべき仕事でもってして書かれている。日本の活版印刷の発展には三省堂が大きく寄与していたようだ。そこに登場する男たちの熱い息づかいも日記や人物評から感じることができる。

 ベントンとはアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)のエンジニアであるリン・ボイド・ベントン氏で、活版の母型をつくるベントン彫刻機をATFのために開発した人である。日本では母型は職人が手彫りしていた。そこで、三省堂の亀井寅雄が熱心にベントンを説得し非売品であるベントン彫刻機買い入れたのである。そこから関東大震災や第二次世界大戦があり日本で数少ないベントン彫刻機や、三省堂をはじめその他の印刷会社も存亡の危機に瀕しながら活版印刷は発展を遂げていくのである。

 英語と日本語の違いや、読みやすさとデザイン性などベントン彫刻機が日本に馴染むまで、操作以上に検討事項があった。その一つが書体である。篆書体、明朝体などなど数ある書体のなかから、今もなじみがある明朝体が選ばれ、母型の製造可能性と筆勢(あるいはデザイン性)を天秤にかけながら太さや規格の統一がなされていく。印刷の話ではあるが日本の文明史でもあるのだ。先述したが雪の粘り強く蒐集し的確に引用した資料があるため立体的に浮かび上がるものがあり、大きな仕事だと思った。

 今日仕事で多くの人がオフィスソフトを利用し、必ず游明朝かMS明朝どちらかを目にするだろう。いつもの風景でいつもの仕事、業務書類を無心に作成していく無味乾燥な毎日。だが、本書を読むと画面上に次々に出現する明朝体の活字も元を辿ると、活版印刷に到るまで何度も検討された書体の名残があることに気づくだろう。その瞬間にふっと大正に日本の活字文化を発展させようと血潮をたぎらせた男たちが頭をよぎり、少し仕事が楽しくなるかもしれない。