鉄ペンという選択

 万年筆を買った。パイロット社のカスタムという万年筆の定番のシリーズだ。そのなかでもペン先がステンレスでできている鉄ペンといわれるものを選んだ。万年筆ファンの極右からは邪道といわれるだろう代物だ。万年筆といえばペン先が金で滑らかな書き味と、適度な摩耗性が愛着を呼ぶものである。一方、鉄ペンは扱いが悪いと少し紙に引っかかり、撓ることもない。細字のボールペンを使うほうが機能的ではといわれてもおかしくない。
 さて、ここで自分なりに鉄ペンを擁護したい。まずは頑強性である。撓らないのは硬さの裏返しであり、仕事で速記するのにいいし、書類の小さい枠にも的確に筆記できる。少ない文字を速く書くことが求められる現代人に向いているのだ。また、摩耗しないので持ち主のクセに左右されず、メンテナンスの頻度も少なくて済む。ここに精神的な安定性や、プラグマティズムを見出す。鉄ペンは速く的確に仕事をしてくれるのだ。金ペンは香り高い文章をゆっくり紡ぎ出すイメージだ。近代の書簡や対人間の紹介状など、手書きの書類が力を持っていた時代のものだ。また、現代においても重厚な散文、韻文を紡ぎ出す道具だ。鉄ペンは加速化してしまった社会生活と、ゆったりとした文芸生活を橋渡しする存在でもある。
 市井に生きる人間はなかなか金ペン的な生き方はできない。生業でも創作でも時間を見つけてせかせか書く鉄ペンな生き方を余儀なくされる。しかし、ノック音の軽い樹脂製ボールペンよりいくらもマシなのだ。鉄ペンとともにマージナルに生きている自負がある。沖仲士の哲学と称されるエリック・ホッファーはどんなペンを使っていただろう。ボールペンかもしれない。沖仲士は鉄ペンなんて悠長なものは使っていられないだろう。