小泉苳三著『近代短歌の性格』を読む

  万葉集や古今和歌集がいわゆる古典とされてきた時代に小泉苳三は近代短歌の立ち位置、成立、発展、性質を明らかにしようという意図をもって本書を書いた。本書は明治期の文壇においての短歌の位置から展開し、したがって坪内逍遙『小説真髄』からはじまる。言文一致運動や写実主義が台頭してきた文壇のなか、新しい文学的事象として新題歌も付加することを提案している。新題歌とは文明開化の事物を扱ったものだが、従来の風雅さを払拭しきれていない、新しい事物を説明しているにすぎないなど、近代以降の複雑な事象を扱うのには限界があるものであった。しかしその後に続く、井上哲次郎『新體詩抄』、新体詩、そして和歌革新運動に展開する呼び水にもなった。和歌革新運動の立役者である正岡子規、与謝野鉄幹、落合直文はそれぞれ平田系の国文学経由の和歌や、漢学の素養があり、また志士的気質をもっていた。小泉は子規、鉄幹はもちろんのこと本書では直文について特に詳解している。

  ながらへて今年も秋にあへれどもそゞろに寒し萩の上の露

  病みつつも三年はまたむかへり來てわが死なむとき脈とらせ君

 学びが浅いため筆者は直文の歌をあまり知らないが、という引用歌を読むと抒情的でよいと思う。

 写実主義的傾向、心理主義的傾向は小泉は封建制度の否定と新しい秩序の模索に向けた批評が根底にあると説明している。明星のロマン主義と根岸短歌会の写実主義に和歌革新運動は結実したが、近代合理性の潮流はロマン主義のもつ高踏派的側面から衰退を招くことになり、短歌にも自然主義の影響がみられてくる。根岸短歌会の写実主義と自然主義的リアリズムは双方リアリズムであるが、内容も成立史的にも異なる。例えば子規のいう写生は絵画のスケッチから来ており、東京美術学校でも静物画をまず描くであろうと子規は述べている。また文章における写実については抽象的叙述と具象的叙述を挙げ、後者を写実とした。また抽象的叙述は人の理性に訴え地図的であり、具体的は人の感性に訴え絵画的と説明しており、ロマン主義と写実主義を念頭に置いている。小泉はこのくだりで主情的ないし感傷的自然主義短歌と呼び、余剰感情という短歌のそのもの性質というべきものであると述べ、石川啄木を挙げている。明星が自然主義で衰退して啄木が登場したということを説明しているが、啄木は死後評価が定まったという説もあり、かくのごとく定式どおりなのかは疑問の余地が残ると思われる。

 師弟関係をもとにした封建主義的結社も和歌革新運動後の出来事である。自由主義の雰囲気のなかで根岸短歌会や明星は同輩という形で集団として大きくなっていった。その後形を変えて「アララギ」、その他結社誌が創刊されたが、小泉は自由主義に再び封建的な結社が出現したことに進化か退化かとチクリと指摘している。結社に関する議論は今日もあるが、短歌における永遠のテーマなのかもしれない。一方で近代の結社内にみられる雰囲気、思い付く限りでは絶対の指導者や添削か、と今日の雰囲気は全く異なっており、今日の結社不要論は小泉の時から続くレッテルもあるのではないかとも思う。

  隣室に人は死ねどもひたぶるに箒ぐさの實食ひたかりけり 斎藤茂吉

 茂吉は近代短歌のひとつの到達点であり、小泉も肯定的に鑑賞している。しかし、引用歌のみ何故か不遇な鑑賞で、長塚節の箒ぐさの実がわからず困惑しているという評を引用するのみで終わっている。箒ぐさの実はいわゆるとんぶりで、うみぶどうのような食感の食べ物である。茂吉は北国のひとなのでとんぶりは身近な食べ物だった。病人の死で死亡診断書や遺族へのムンテラに終われるが、郷里の食べ物であるとんぶりが恋しいというのが大まかな歌意である。しかし、そこで終わらずとんぶりのぷちぷちした感じは人間の細胞の拡大図や臓器を彷彿とさせなくもないし、泡立つ形状は蛙の卵や魚卵などあふれる生命のようである。とんぶりへの恋しさとともに、どこか肉体的な要素もとんぶりに見いだす屈折があるように思われる。

 近代短歌の特質に静観的退嬰的非意志的人生観がそのひとつとして数えられるという。小泉によると近代は個性絶対主義の社会になり、社会に絶対的範疇が失われた。いわゆる脱中心化であり、大衆は魂の拠り所を失い、短歌を厭世または官能に走らせた。この厭世は階級主義的短歌すなわちプロレタリア短歌、官能は新短歌またはモダニズム短歌に対応するのだろう。社会の成熟とともに訪れたアノミーは新たな文学潮流を産み出した。一方で短歌は純文学とともに非大衆化していく。

 本書は評論集なので多少重複があるが上記のような問題提起を小泉の批評を交えて論じている。新題歌や浅香社など近代短歌論で言及されることが少ない主題も取りあげられている。和歌革新運動のくだりは詳解されており後続の近代短歌史研究の先行研究にもなったであろう。近代文学批評に白鳥正宗がいるように近代短歌論には小泉苳三がいることを認識させる一冊であった。