歌はしづかに読むべかりけり 「六花」(二〇二二・十二/六花書林)を読む

  「六花」(二〇二二・十二/六花書林)が冬の到来とともに今年も届く。今回も豪華な執筆陣。年末に差し掛かり一年短歌で取り組んできたことを顧みつつ「六花」を読むのは格別で、温かいコーヒーが合うと思う。今年のテーマは「詩歌のある暮らし」ということで作家が詩歌に関するエッセイを寄せている。「六花」の流通形態を考えると詩歌に関係する人が多く手にする雑誌なので共感しながら一年を顧みる読者は多いと思う。さて、書籍を読むのにあとがきから読む人がいる。純粋に誌面を楽しみたい人からすると邪道なのだろうが、筆者はあとがきから読む邪な人間である。「短歌ブーム」といわれるなか、暮らしのなかにどう詩歌が息づくかのかという思いが編集者にあることを知る。たしかに昨今、「短歌ブーム」といわれており、アイドルや歌舞伎町のホスト、お笑い芸人がそれぞれ短歌関係書籍を刊行し、SNSでも活発に歌がつくられている。報道やインターネットの記事でもその手のものがみられる。一時期老人の生き甲斐というイメージが濃かった短歌像を幾分か払拭する雰囲気はある。が、ブームであるからには去るのだろう。そんなことより、詩歌が好きな人は特集のとおり暮らしの中に短歌が息づいており、いや短歌があって従なるものとして暮らしが存在するひともいる。〈白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 若山牧水『路上』〉のようにちびりちびりと詩歌をやるのが味があっていいのかもしれない。

 筆者は短歌畑なので、歌論や歌人のエッセイをよく読むが、本誌は詩歌というように詩人も俳人も寄稿しているので新たな発見がある。詩人の田中庸介は鈴木志郎康詩集と電車のガタンゴトンとレールが響くリズムの関係を書いており面白い。「十五歳の少女はプアプアである(ガタンガタン)/」と改行のたびに電車の振動が入る。詩集と電車の振動に人生の光景や、現代詩の読み方、進行の力強さに関する洞察を得る。今や電車を見回すとスマートフォンを弄る人ばかりだが、本好きなら本は手放せまい。実際電車で本を読むとなぜかはかどる。詩歌と暮らすことは電車のリズムだけではなく、喫茶店の喧噪や、ベンチで感じる風の香り、天候や季節など詩歌集を読む環境も関係している。ずっと感情移入できなかった一節が環境で急にわかることは想像に難くない。詩歌を読むということは思っている以上に能動的な行動で、即興性、偶然性を秘めている営為なのかもしれない。嵯峨直樹は九歳から三十九歳(!)までの作品が収められた中野迪瑠歌集『青色ピアス』を挙げ一度きりの人生と短歌について歌を引用しながら考察している。他のエッセイでもいろいろなご縁が重なって詩歌にめぐり逢ったことを書かれているものがいくつかあり、詩歌に出会うのは運命的なことなのかもしれないとロマンティックな感想をもった。かくいう筆者も今回のテーマである詩歌のある暮らしについては言語化しにくい。詩歌との出会いに関しては、いくつか出来事やご縁はあったが、いろいろ共鳴して、自分自身もそれなりにときめいたり悩んだりしながら詩歌と人生が交わっていった気がする。筆者は昨年、「六花」(二〇二一・十二)で「二足か一足か」というエッセイを書かせていただいたが、学部生のときに専攻した心理学というはじめて接した学問が、詩歌ではないのだが、詩歌との出会いのきっかけになった。坂井修一は英国詩人バイロンの『マンフレッド』の鷗外訳を引きながら個我の苦悩、近代的なエゴを追及し限界を明らかにした歌人はいたのだろうかと問いかける。実作者なら読んでいて襟を正されるエッセイだ。脱近代どころか現代短歌はややもすると前近代に進んでいるかもしれない。

 「六花」を読むこと、熱いコーヒーが合うんだよなどと思いつつ、ドリップでもインスタントでもコーヒーを用意する時間、これは紛れもなく詩歌のある暮らしだと思う。そのなかで出会う作家に共感したり、そういう考えもあるものだなぁと傍観したり、巻末の執筆陣の近況をみて「お、歌集を出されるのか」と驚くなどすることは時空間を超えて作家とドリップだかインスタントだかのコーヒーを飲んでいるようでもある。これらはブームのような華やかなものではなく、歌はしづかに読むべかりけりという楽しみ方だと思う。