2022年12月の日記

 2022/12/3

 ストレートネックで寝違えためしばらく動けない。近医を受診し消炎鎮痛剤と頸椎牽引を処方してもらう。明日は接骨院に行こう。

 サント・ブーヴ著、小林秀雄訳『我が毒』を読む。知らない作家ばかりだが、ヴィクトル・ユゴーとバルザックの批評は主著を読んでいたのでついていける。近代批評の父といわれるサント・ブーヴだが結構辛辣かつ執着心がある。二人とも俗物である的なことをブーヴはいっているのだが、本人も調べるとユゴーの妻と姦通している。本書ではブーヴが批評について生理学、博物学のような分類や分析することを志向していることや、他者の批評を通じて自己批評や自己崇拝している不可分性を述べているあたりはなるほどと思う。伝統的な印象批評や伝記的批評を発展させた批評家とされているが近代実証主義の先駆けなのかもしれない。それ以前はきっと言いたい放題というか統制のされていない感想めいた批評が跋扈していたのだろう。また批評を書く際も焦らずにまずはゆっくりと成り行きに任せて読むことで、次第にテキストの先にいる作者が彼ら自身の言葉で彼ら自身の姿を描き出すといっている。依頼された原稿は締め切りがあるのでそんな悠長なこともいっていられないが、批評家だけではなく歌人も何度も繰り返し一定の歌集を読むもので、そこからよい批評も生まれるだろう。文学者についての私見も面白い。文学者はもはや人間ではないという。友人や情人を亡くすなどで悲嘆にくれても、自尊心にくすぐられる場所があり、そこを軽く叩くとニッコリするのだという。歌人も身内が亡くなるとまず歌にする。


2022/12/4

 宮本百合子『フロレンス・ナイチンゲールの生涯』を読む。ナイチンゲールの時代は看護師は酒気帯びは普通で堕落していたらしい。ナイチンゲールの生涯はそこから近代看護学、公衆衛生、医療安全、院内環境整備を確立した功績にある。政治をも動かしロビイスト的な仕事もしていたようだ。小林秀雄の著作集もなんとなく読んでいる。

 接骨院で歪みを直してもらい、指導もしてもらう。思いの外いい。マッサージ屋さんではなく行くべきは接骨院だ。食事はフカヒレ中華蕎麦と飲茶。飲茶はもっとあってもよかった。帰りにTop'sのブラックチョコレートケーキを買う。


2022/12/7

 岸田國士『従軍五十日』を読んでいる。満州事変後の中国の従軍記者としての記録で、戦火の絶えないなかで生き抜くため住人の日本軍に対する柔軟な従順が描写されている。また、小規模な進攻は「そろそろ襲撃しようと思っていて……」といったような将校同士の簡単な打ち合わせで行われ、分析がなされていると戦闘中も支那の兵は狙って撃ってないから弾(弾道)が高いとお互い話して、伏せるではなく馬に乗ってしまうほどどこか悠長な雰囲気がある。しかし、戦闘なので死者がでる。戦いと死が道端に転がっているのが戦争なのだろう。それにしても寒くなった。生活を送るだけで疲れる。


2022/12/10

 夜は寿司屋りんどうで河豚鍋、河豚刺、河豚唐揚げをいただく。河豚はしみじみとした味がたんぱく質の身の奥にあり味わい深い。食感も調理方法によって異なり人々を魅了してきた魚ということがよくわかる。


2022/12/11

 飛鳥山に登る。北区の絶峰。ファミリー層があふれている。山に男坂女坂があるなら飛鳥山は家族坂がある。いささか遭難者の気持ちになる。


2022/12/17

 戸坂潤『思想としての文学』読了。哲学者からみた文学だが、近代文学における印象批評についての考察が印象的だった。唯物論的に科学批評としたかったようだが、今日は印象批評も戸坂のいう科学批評もいっしょくただ。


2022/12/18

 ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最期の日』読了。死刑の理不尽さ、人に如何に筆舌に尽くしがたい恐怖や悲しみを与えるかを一人の死刑囚の視点を通じて描いている。当時のフランスはすぐギロチン刑だったようだ。更正保護という観点がなく、貧困は徒刑、死刑に直結していたようだ。が、死刑の慎重さは人間の引いた線に過ぎない。死刑制度が残る現在も本著の問いは生きている。また、入管の施設や拘留者でさえ非人道的な扱いを受けている昨今である。日本の前近代さよ。

 かりん賞・かりん力作賞を読む会の日。厳戒の評点は飽和しているから引き算が上手い作家が目が惹く話はなるほどと思う。

 Netflixで『ザ・バットマン』を観る。これは名作。抜きん出ていいバットマンな気がする。バットマンの矛盾を抱えつつもゴッサムを守らんとする意思が強く感じられたし、リドラーもそこそこの賢さでいい。ペンギンはもう少し卑怯というか怪しさがあってもよかったかもしれない。都市の描きかたもゴシックゴシックしすぎてなくていい。ゴシックなのはウェイン邸くらいにしたほうが今の時代しっくりくるのかもしれない。


2022/12/24

 柄谷行人『世界共和国へ』読了。近代の社会主義者プルードンやマルクス、カントやヘーゲルそしてネグリ・ハートを引用しながら交換様式という観点で修正を図っている。マルチチュードのような草の根と世界共和国(各国が主権を放棄した状態の国連のようなものか)の二方向の必要性を結論付けている。社会科学系の正論が夢物語に聞こえてしまう。どうやら時代に毒されているらしい。


2022/12/25

 カトリーヌ・クレマン著『フロイト伝』読了。写真も豊富に収められている評伝。ヒステリーの患者は多くは女性でフロイトも、その弟子の分析家も男性中心的と批判されるような分析や生涯でもあった。ジェンダーに無自覚な時代というのもあったし、それ以上に無宗教のユダヤ人という問題もフロイトは孕んでいた。そうした矛盾が近代の人間像だろう。クレマンはフロイトに「教授」や「あなた」と呼び掛けながら時代とフロイトを読み解いていく。フロイトは斎藤茂吉に風貌や自我の強さだけではなく生き方も似ている。催眠療法で行われていた精神療法だが、呪術的で科学とはいえなかった。フロイトは自由連想法を取り入れ誰もが観察でき、力動的精神モデルで説明ができるように科学化した。精神療法を近代科学に拓いた人物である。正岡子規は写生という歌のあり方を提唱し、対象を観察するという近代科学的手法を取り入れた。茂吉はそれを実相観入という歌論に深化させた。フロイトも茂吉も近代科学な仕事をした。一方でフロイトにおいては精神療法に薬物療法が発展し、精神分析が時代遅れというレッテルを貼られたり、ユダヤ人ゆえにナチスに迫害される。茂吉は第二次世界大戦下に大政翼賛的な歌を多く詠んだため戦争責任を問われる。いずれも時代に乗り、時代に裏切られ、現代もなお通用する要素がありつつも、クラシックになった巨人である。


2022/12/26

 映画『シェフ』をみる。料理人が楽しそうに自分の好きな料理をする。愉快である。他者に迎合することなく自分の尺度を信じて楽しみながら道を進むことはいいこと。たとえば短歌は昨今短歌ブームをはじめ他者の評価に、作品の評価が依存しすぎている。これらで成り立っている作品は商業主義的であり消費されゆく運命にある。


2022/12/30

 冬の雑草はささやかだ。しかし、水分が少ないからか根はしっかり張っている。本当はそっとしてあげたほうがいいのだろうが、雑草なので抜く。草抜き鎌で広く抜きたいときは横に、深く抜きたいときは縦に鎌を使う。根気のない私は全ては抜けない。なのでしばらくすると雑草は生えてきて一定数を保つ個とになる。雑草を抜くことで頭を空にしたい私と利害が一致している。岩波「図書」を読んだ。安藤昌益に関する本も読んだ。自然真営道という農本的共産主義のはしりなのだが、江戸時代の思想ってアジテーションが強くてかえって胡散臭く聞こえる。内容はいいんだけど。


2022/12/31

 大掃除らしいことをした。うちはかつて小さな出版業を営んでいて謹本がたくさんある。少し結わえる。短歌だけではなく現代詩でも言葉が溢れている。大晦日夜は評論の修正。ご指摘いただいたものを盛り込んだり、検討したりすると規定の文字数でさらに内容が盛り込める。いい環境批評が書けた気がする。持論だがひとつは分析批評(精神分析批評とかフェミニズム批評とかポストコロニアル批評とか)はできるといいと思う。前にガヤトリー・スピヴァクを援用したポストコロニアル的フェミニズム批評をしたけど、サイードもちゃんと読まないとな。まぁ普段は印象批評で作品鑑賞するのが一番楽しい。