睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

  どうも薄曇りの日に読みたい。天気のよい午後でもいいのだが、装丁の雰囲気からか、先入観か、ふさわしい天候を待った。お供は紅茶がよさそうだが、あいにくそんなコジャレたものは常備しておらず、とりあえずインスタントコーヒーを氷水に溶く。


  簡潔に雨降りて止む朝ありて瓦斯火にパン切りナイフかざせり


 天候が気になるのはきっと書店でぱらぱら頁を捲ったときに雨の歌が目に入ったからだろう。サブリミナル効果というやつか、それなら効を奏したというべきで、今日は歌集にとってよい読書日和だ。秋、瓦斯火にパン切りナイフをかざしてトーストを切りたい日だ。


  けはひなく降る春の雨 寂しみて神は地球に鯨を飼へり


 雨といっても春の雨の歌もある。春の雨は秋の雨と違い匂いがあるし、光を湛えている。秋に引用歌を読むから春の雨が明確にわかるともいえる。にわか知識で人間は神に似ているらしいことは知っているが、神にとって小さい鯨は可愛らしくまた頭もよいので飼うのに退屈しない。青い小さな地球をすいすいと泳ぐ金魚くらいのサイズ感の鯨、神に共感できる。


  円周率がピザをきれいに切り分けて初夏ふかぶかと暮るる樫の木

  煙草吸ふひとに火を貸す 天国はいかなる場所か考へながら


 円周率の歌は初めて読んで以来記憶に残っている歌で、以降ピザをみると円周率をまず思い起こす。歌ではピザに円周率が潜んでいたのだが、世界の至るところに円周率はある。先述の神同様に、ピザに汎神論的な存在感がありつつ、下句は静かに短歌的に結ばれる。次の歌も煙草の火を貸す情景か、贈与する動作に天国との類似性をぼんやりと考えている。いずれも歌を目の前にして、歌と同じことを考えさせられる。案外結論は出ず、煙草の煙のようにその思考は宙を漂う。


  コンピューター・チェスの次の手を考へてるこんな小さな湯船のなかで


 ディープラーニングや生成AIが話題に出る昨今、ボードゲームのAIは古典的なものといえそうだ。ランダムな手のトライアルアンドエラーをシミュレーションで繰り返しながら最善手を模索するモンテカルロ法というものだ。ものによっては尋常じゃなく強いが、古いソフトには素朴さがある。脱線したが、小さな湯船のなかでコンピューター相手にチェスをすることは一つの世界の創造だと思う。いささか恣意的に歌を引用したが、歌集をとおして世界のなかに世界がある感覚を面白く読んだ。


  老いながらわれに似てくる母とゐてわけあふ十月の葡萄パン

  飼ひねこをちひさな恐竜ちやんとよぶ桃のにほへる夜のいもうと


 リアリティをもって詠われる主題に“家族”がある。連作中に数首あったり、暗示されていたりと間接的に扱われているが、家族関係も読み進めるにつれ変化していき重要な主題である。未読の読者のため、本文では母と妹の歌を二首引く。われが老いて母に似ることは時間の流れで道理がわかるが、歌では逆に母が老いるとわれに似るという特徴的な関係性。また、葡萄パン(葡萄とパンでキリストの血と肉というのは迎えすぎだろうか)を分け合う一体感がある。妹は無邪気な存在として詠まれている。歌集を読み進めるにつれ、年月は経ち、主体の人生は家族の人生と絡み合いながら、家族のなかの自己を見出だす。


  外で少し眠るとからだが冷えてゐて、さういへばさうだつた気がする


 幻想と現実を往還する歌集は読者もその往還に誘う。ピザに円周率を感じ続けていた筆者は本歌集を読んだのち無数のinvisiblesを予感するだろう。そのうちのいくつかは見なければならないものもあるだろう。

このブログの人気の投稿

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む