富田睦子歌集『声は霧雨』を読む

   ぱたりぱたり髪は髪ゴムくぐりゆき風のうまれる五月の背中


 歌集のなかで子の歌が印象的だ。いや子というより母と娘の歌といったほうがいいかもしれない。髪をゴムでしばるのは母、ぱたりと髪が何度もゴムをくぐる、この日常の風景を慈しむところが春風や五月という気候のいい身体に表れている。


  広がれる宇宙についての不安など抱えはじめる、思春期と呼ぶ


 家族にもよるが母と娘は父と娘の関係より共有するものが多い。宇宙の不安などは性差なく考えることだが、子の話を聞きながらかつて自分も同じことを考えていたことなどを話すのは同性、母と娘のほうが近く聞けるかもしれない。歌では子の不安を聞くだけではなく、自らも子の感情を少女期の自分の感情に重ね合わせ追体験している。


  バス停よりナナフシのかげ曳きながら吾子の顔してあゆみくるもの

  少女らも稚魚らもひとりひと粒のこころ灯らせ群れては散りぬ


 一首目のナナフシは枝に擬態する昆虫であり、吾子の顔してあゆみくるものという表現においても子がやや突き放されたように詠われている。家族の顔、学校での顔、友人関係の顔とそれぞれ顔があるのは当然ということは折り込み済みであっても、歌の場面の子の顔に違和感を感じている。まるでナナフシが擬態を生存戦略としたり、またか細い姿であるように子に存在的危うさを感じてしまう。二首目では少女らを稚魚に例えている。稚魚も川や海のスケールに対しては小さい存在で半透明な姿にもおぼつかなさもある、そして生存率も低い。しかし、しっかり生きていきやがては成魚となるのである。子、または子の周囲にいる少女と自分自身との存在の確かさに距離があるときに、小動物の比喩が使われるようだ。小動物という身近だが距離のあるモチーフが比喩として適当なのだが、比喩元の小動物に対しても情が厚い。ちょうどよいモチーフというだけでナナフシや稚魚が引っ張られてくるのではなく、それらは体験に根差した小動物で、記憶のなかでいとおしさがあることが伝わる比喩だと思う。


  真直ぐな脚をさらして塑像立つわが少女期よりさらにさびしく


 塑像の背景には無数の少女がいる。そのなかに子も含まれる。下句でわが少女期よりさらにさびしくとあり、一見塑像と主体に線が引かれているが、塑像に自らの感情を投影しているのはやはりどこか共感する部分があるからである。過去と現在を貫く少女性が子やその他の少女と共鳴し、ときにナナフシや稚魚のように見えたり、ときに塑像に感情を投影したりする。小動物、塑像、子、少女という身近で、しかし近くなったり遠くなったりする二重性が従来の家族詠よりも主客が入り乱れ、歌に深さを与えている。


  犬というかなしきものがふんふんと嗅ぎたるわれの固きくるぶし

  旅人のわれを泊めたる夜の丘の白き宿あり歌集のなかに

  砂糖衣のくだけるおとの響きたるここが私の頭蓋の空き地


 家族詠に焦点を当てて読んでしまったが、主にわれが登場する歌においても自我は主題のひとつである。一首目はくるぶしに対する熱量の高い犬と、醒めてみている自分という場面である。顔や手指に比べ普段あまり意識しないくるぶしという斡旋が絶妙であり、われはそのくるぶし、自らの身体に対して犬ほど熱をもたないという歌である。二首目は歌人であるわれが歌集のなかで宿をとるという入れ子構造的な歌である。歌人のなかにいると気づかないが、歌人は一般的には珍しくその歌人われをどう詠うか考えさせられる。絵画でいう自画像はそれなのかもしれず、この入れ子構造的な自画像でいうならエッシャーがしっくりくる。三首目は頭蓋に響く音に空き地があるという奇想が面白い。頭蓋の空き地には何があるか考えてしまうし、そこから歌が生まれているのだから空き地には歌は存在するのだろう。引用したわれの歌を読んだところ、自画像やマジックリアリズムのような絵画的な意図を彷彿とした。近代以降自我は歌の主題でもあるが、自我は統合し揺るがないものというわけではなく、日常生活のなかで絶えず揺らぎうるものなのだろうと思った。帯文に「かけがえのない存在であるひとり娘を中心に日々の暮しの手ざわりを粉飾のない言葉で紡ぐ」という紹介文がある。もちろんそうなのだが、日常や家族は平面ではなくある深さをもっており、それらにときに驚き、包み込み、渾然としながら成り立っていることを考えてさせられる歌集だ。

 最後に一番好きな歌を挙げたい。


  芍薬の莟に「ゆらら」と名付ければ枯れたるときに泣かねばならぬ