楠誓英歌集『薄明宮』を読む

 欠落には存在、存在には欠落。死には生、生には死。それぞれの概念が補われる歌があるという漠とした歌集の印象は、栞文にある「エッチング絵画」(川野里子)、「うっすらと、けれど確実に存在している死の影(略)生暖かい気配」(榎田尤利)にもいえるように思う。


  空色のあをかすれゆく長椅子はバス停跡に残されたまま

  桟橋にタイヤは半ば沈みをり小さき魚《うを》を遊ばせつつも


 長椅子は爽やかな青空と同化するように存在していたはずで、空とともに色がかすれて、くすんでいく。バス停跡というから、長椅子はバス停とともに廃棄されている。かつては同化していた空も、いまは長椅子もバス停も死の気配を湛える。それもおぞましいものではなく静かな死の気配である。次の歌のタイヤも棄てられている。しかし、タイヤの内側に溜まった水に魚がおり、タイヤとしての役割を終えつつも、生の気配がある。どちらの歌も一つの景色に生や死が内包される。生と死は存在するものにはついてまわる当然を浮かび上がらせる歌である。


  休校のつづく教室 仰向けのまま冷えてゆく椅子の墓原


 そうした歌は時事的な歌であっても詩情を醸し出し、時事的な題材から発せられる俗臭を取り除く。連作単位でみるとコロナ禍の景色であることがわかる。学習机の上に椅子が逆さまに乗せられ、数日が過ぎている風景だが、椅子の墓というところに、子どもの無邪気さと対照的なひんやりした気配が感じられる。


  胸骨が折れてもひたに圧しつづけよいつしか爪は蹄となりて


 時事ではないが、心臓マッサージの講習のような、急迫しせわしない場面でもその場の雰囲気とは反面で、静かでひんやりした世界をみている主体がいる。講習の場所も仮に学校であるとすると、心臓マッサージに内在する死のイメージ、蹄から連想される牧羊神のイメージと、少年の対照性で読み味が広がる。〈ひたに〉という副詞や〈圧しつづけよ〉という文語、そして両手を合わせる形を蹄を例えるところに、牧羊神のような神話的イメージが加わる。


  鶏姦とふ哀しきひびき知りてよりかくまで淡き少年の膝窩《しつくわ》

  うつ伏したきみの頭蓋か卓上にひそとおかれて在る晩白柚


 主体のものではなく、特定の人物のものではない少年の身体の一部に焦点が当てられる。骨相学に用いられる頭蓋骨の見本に退廃美を感じるように、身体の一部に焦点を合わせると、ある美しさを感じられる。鶏姦は辞書的には男色だが、柳田國男が折口信夫の弟子に雌鶏になってはいけないと言ったという逸話を思い出させる言葉でもある。現代の社会通念において鶏姦などという人はもはやいないと思うが、それにしても少年の膝窩の美しさよ、という歌である。二首目も晩白柚を詠んでおきながら、きみの頭蓋つまり頭部の大きさや質量を思い浮かべている。


  病床にきみは臥すゆゑ雪渓をこえて白狼夢に立ちたり

  きみの街は凍雪《いてゆき》だらう街灯に集まつて降る春の雨見ゆ


 連作や数首から浮かびあがる客体は、現れて去っていく歌がいくつかある。病床という白い場面と雪渓、白狼と白いイメージが連なる。そこからきみの住む街へと連想を広げ、その街に降っているだろう凍雪、主体の街に降る雨と場面が転換していく。しかし、それ以上にきみを描き込むことはせずに、イメージの連想に終始する。

 生と死、客体の去来、どれも移り行くものである。移り行くから輪郭は濃くならずエッチング絵画のようなのかもしれない。

このブログの人気の投稿

睦月都歌集『Dance with the invisibles』を読む

濱松哲朗歌集『翅ある人の音楽』を読む

後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』を読む