春風を背負った歌人(三枝昻之著『佐佐木信綱と短歌の百年』)、「かりん」(二〇二四・一)所収

   願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや

本書は明治から昭和という激動の時代を駆け抜けた佐佐木信綱に焦点を当て短歌史を論じた一冊。引用歌は竹柏会最初の全国大会の題詠に信綱が提出した歌である。三枝昴之は「叶うならば春風となって人々の憂いを和らげたい。」と読み、「人の心の深くに秘められた憂悶を晴るけることは、歌道の徳の一つである」という信綱の自解を紹介している。信綱が生きた時代は、和歌革新運動や短歌結社の隆盛、関東大震災、太平洋戦争等が起こり決して平穏ではなかったが、信綱は激動の時代のなか歌道の徳を信じて生きた。

和歌革新運動においては、正岡子規は写生というシンプルで強力な方法を提唱し、与謝野鉄幹は当時の歌壇を女々しいと罵倒した「亡国の音」等で主題を意識した。三枝は両名にいずれもそれまでの短歌が培ってきたものを断ち切ろうとする意志があるとみる。一方で信綱は歌を担いなおすことで革新した歌人と三枝は捉える。信綱は「われらの希望はふるきあとをきはめて新しき道をひらかむとするにあり」と述べ、短歌を新しくするには古歌の蓄積の必要性を説いている。そして、短歌は自分の思いを表現する最適詩型と考え、有名な「ひろく、深く、おのがじゞ」に発展させた。西洋の個人主義から発した文学運動である和歌革新運動と国文学、旧派和歌を包摂させる道を選んだ信綱は歌道の徳の懐の深さを信じたのかもしれない。

校本万葉集の制作も信綱の大きな仕事である。全国に散在する何通りもある写本を収集し照合するという途方のない作業である。本書で引用されている「心の花」の「銷夏訪書録」には、信綱が東京、名古屋、京都、大阪等に赴き、旧家、好事家、蔵書家等に訪ねたとその労苦を思わせる記述がある。関東大震災で一度は焼失したと思われたが、奇跡的に校正刷りが見つかり出版にこぎつけた校本万葉集があったからこそ、定本が可能になり、今日の万葉集研究の基礎となった。

元寇の(のち)六百六十年大いなる国難来る国難来る

太平洋戦争開戦を目前にして読売新聞に掲載された歌。歌は開戦の詔書とは異なる呪力をもち、読者を引き込んだと三枝はいう。短歌だけではなく多くの軍歌も作詞した信綱の歌は呪力となり、銃前後の戦意高揚に加担した。賛否はあるが、国も歌も滅びる危機感の募る戦時下において、歌道の徳により亡国のメランコリアを晴らすことで、救われた人もいたのではないか。


「かりん」(二〇二四・一)所収