錘としての身体(「かりん」(二〇二三・十一))

  心身二元論ではないが、魂に比べると身体は何と重いことか。身体は魂と比べ質量がある、存在するのに空間を必要とする、飲食を必要とする、ときに生殖に関わり、老いや病によりより重くなったように感じる。身体はわれわれの魂を現実世界にとどまらせる錘のようである。

石斧の重さの手足半日をジャングルに掘っていたる背中も 田村広志『捜してます』

ずつと喉に隠しておいたはずなのに斧の重みが時をつらぬく 濱松哲朗『翅ある人の音楽』

さて、引用歌はどちらも斧と身体(手足・背中、喉)が詠まれている。沖縄で戦死した父をもつ田村の歌集からは、心筋梗塞を患ってもなお、遺骨収集を続ける意思の強い主体が浮かび上がる。引用歌は病後にも関わらず、半日も沖縄の密林で遺骨収集を行う自らの身体を石斧に喩えている。鉄製の斧ではなく石斧というところに、自然物を加工した素朴な質感と、欠けることもある脆さが表されている。石斧は自らの身体の重さだけではなく、戦死した父と遺骨収集をする田村の運命の重さ、そして遺骨収集をする心身に内包されるある脆さの比喩である。

濱松の歌は引用元の連作タイトルにパウル・ヒンデミットのヴィオラ協奏曲『Der Schwanendreher』(白鳥を焼く男)の楽章が添えられている。連作中に少年であったころの主体と現在の主体が登場し、少年の主体は白鳥のように繊細で、ときに被虐的な存在として描かれる。現在の主体は少年の主体を見つめ、ときに対峙する。喉に斧が隠してあるのは現在の主体で、その斧の重みが時をつらぬくという。時とは白鳥または少年の頃の主体かもしれないし、白鳥を焼く男すなわち加虐性のある他者、社会かもしれない。喉に隠された斧というのは、言葉や声、成人の象徴である喉ぼとけの暗喩でもある。時をつらぬくとは断罪のようにも読め、主体は斧をもってして少年であった主体を加虐していた他者、社会、白鳥を焼く男をつらぬくのだ。この斧は自重で時をつらぬけることから、先の石斧と異なり、冷たく鋭い鉄製の斧がふさわしい。

改めて身体は重く苦しい。メルロ・ポンティは『行動の構造』(一九六四・一〇/みすず書房)で筆者が冒頭に述べた化学的構成要素の塊としての身体だけではなく、「われわれの習慣でさえも、すべて各瞬間の私に感知されるとは限らない身体なのである」と述べている。身体は時間や記憶をどんどん溜めこんでいく。田村は父から続く抗いがたい運命と時間、濱松は過去から現在にかけての時間を身体に集積させ、その重みを田村と濱松は質感の異なる二丁の斧に喩えた。田村の石の斧に比べて、濱松の斧が冷たく鋭利な鉄の斧なのは、目まぐるしく時間が過ぎゆく現在に生きる主体が因縁のある過去を断ち伐る必要性があるからだろう。

をんな瓢に入れば瓢の形になり瓢の形をすこし歪める 米川千嘉子『あやはべる』

しぼみたる胸をしぼれば耐へがたく美談のやうにまだ乳が出る 山木礼子『太陽の横』

米川の歌は女性の身体の輪郭を瓢に喩えている。瓢は第二次性徴以降みられる胸と骨盤の発達の形を形容しているが、どこか鋳型のような詠われ方をしている。瓢は女性の生理的な身体の特徴だけではない。先に引用したメルロ・ポンティ『行動の構造』では身体を「社会的主体と集団との弁証法」とも述べており、社会性も帯びている。もっとも、その社会とは男性視点の社会である。瓢の鋳型にひとりひとり女性が入ると少しずつ形状、つまり男性視点の社会に規定されてきた女性の“身体”が変化していくという歌。

山木の歌のしぼみたる胸は自らの女性性や母親らしさの象徴である。意志に反して出る母乳は、いわゆる母親らしさを賛美するような社会的な規定のようである。授乳に象徴される子育てはケア労働であり、女性らしい、母らしいと社会から規定されてきたが山木は反感を覚えている。小川公代は『ケアの倫理とエンパワメント』(二〇二一・八/講談社)で、テニス選手の大坂なおみが二〇二〇年全米オープンで警官による黒人への暴行に抗議する「ブラック・ライヴズ・マター(BLM)」に賛意を示したことを例に出しつつ、「じっさいに人の心を打つふるまいには、男性的感情(=強さ)と女性的感情(=優しさや弱さ)が矛盾しながら同居するような“両性具有的”なものが多い。」と述べている。山木の歌を読んで印象的なのは女性らしさや母性への批判的な視点だけではなく、〈美談のやうに〉と皮肉を利かせる、“両性具有的”な抒情である。乳房を女性らしさという修辞で飾らず、即物的に表現するところにも“両性具有的”な身体認識がみられる。米川は女性ひとりひとりが少しずつ男性視点の社会的規範を変容させていることを瓢に喩えて詠ったが、山木は自らの乳房を通じて社会規範をアイロニカルに表現し、“両性具有的”に自らの身体を詠った。世界経済フォーラム「世界男女格差報告書」二〇二三年版で日本のジェンダーギャップ指数が一四六か国中一二五位に低下し、前年一一六位から九ランクダウンしている。身体が「社会的主体と集団との弁証法」であるならば日本のジェンダーギャップが大きい限り、逆説的にも女性の身体の歌は男性の歌よりも力強く変化し続ける。

本当は植物たちからこの星を借りているだけ 枝毛みつけた 笹本碧『ここはたしかに 完全版』

皮膚冷えて皮膚よりいでし一粒に塩の時間の結晶をみる 渡辺松男『牧野植物園』

怒りつつビニール傘を巻くときの腰から下が卑弥呼のごとし 大森静佳『ヘクタール』

身体はとりまく社会や時間の流れで重くなっていく。短歌はメルロ・ポンティ的な身体の重さからわれわれを解放してくれるのだろうか。笹本は枝毛から枝を連想し、地球は、さも主人であるかのように振る舞う人類のものではなく、植物のものであると詠っている。人間中心主義から脱却し、多様な動植物種・無生物と世界を共有するマルチスピーシーズな視点を獲得したとき、主体の髪は次第に青々とした枝葉となり、徐々に人間から植物に変異するような幻想がみられる。

渡辺は皮膚の上の汗の粒という余計なものがそぎ落とされた景色のなかで、塩の時間が結晶に結実していく様を見つめる。水は口から消化管を河川のごとく流れ、腸管で吸収されてもなお、地下水脈のように血管を巡り、やがて汗として皮膚からにじみ出る。汗は誰かに拭き取られることがなければ、鉱石のように時間を蓄えることで、水分が気化し塩の結晶になる。また、人類が長らく生活に用いてきた塩は海や山から採取してきた。皮膚から塩の結晶が生まれるという点において、皮膚は人間の身体を超克し、海や山と同じ自然物であるという認識がある。

大森の歌は主体の感情と気候という自然現象を卑弥呼のごとき下半身がつないでいる。倭の女王で神の妻として鬼道に長じた卑弥呼は、荒ぶる神と民衆の間に立つ存在であり、民衆の側からみると畏れるべき存在であった。天候と自らの怒りが合致したときに主体の身体にはシャーマン性が宿り、それが卑弥呼として詠われた。

笹本、渡辺、大森の歌には身体の重さを感じない。笹本は身体を植物に変異させ、とりまく社会や習慣といった人間中心主義から脱した。渡辺は身体の生理活動を異化し、皮膚から塩の結晶が生じる点に、海や大地のように自然物として身体が存在することを暗示した。大森は卑弥呼という人間と自然の間を取り持つシャーマンを登場させ、自らの身体と自然現象を結び付けた。奥野克巳は『絡まり合う生命 人間を超えた人類学』(二〇二二・一/亜紀書房)でアニミズムについて「生は、世界を貫いて流れているモノの循環とエネルギーの流れの潜勢力として」あると述べている。引用歌のなかでも身体が自然、環境に変異あるいは交錯するとき、生理的、社会的な軛から解放され、世界を貫く生の流れの一部となる意識が読み取れる。その時、身体は魂と同じように重力から解放され自由になれるのかもしれない。


「かりん」(二〇二三・十一)所収