歌は織物のように(久保田淳著『「うたのことば」に耳をすます』)、「かりん」(二〇二一・三)所収

  今日、古歌と現代短歌はつながっているものなのか、断絶があるのか論じにくくなってきている。本書は国文学研究者である久保田淳が、古歌に加えて正岡子規や塚本邦雄など近現代の短歌を引用しつつ古歌の魅力にせまっている。同時代的な横のつながりと、文学史的な縦のつながりを提示することで、その魅力が立体的になり、古歌に親しむヒントにもなる一冊である。

奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき 猿丸大夫

 この歌について「紅葉を踏み分ける主体は? 猿丸大夫「奥山に」」で契沖が紅葉を踏み分ける主体が鹿なのか人なのかを問題提起したことを紹介している。ふみわけが鳴く鹿にかかるか、(われが)聞くにかかるかでどちらも意味が通る。詩人の小池昌代は『百人一首』で鹿とわたしの孤独と哀切が重なりあい、踏み分け鳴くのは鹿でありわたしでもあるとしている。久保田は離れ業であるが、古歌の詩情を純粋に受け止めていると評価している。小池は現代の私性につながる問題を古歌に見出し、久保田は契沖と現代の詩人を接続させたのである。

西行忌笑殺せむに長沓の土不踏(つちふまず)凍雪を嚙みをる 塚本邦雄『歌人』

踏み(いだ)す夢の内外(うちそと)きさらぎの花の西行と刺しちがへむ

 塚本は「反・西行記」で「老優の切つた下手な見得めいて嘔吐を催す」と述べており、西行嫌いは通説である。しかし、久保田は塚本の詞華集を閲するなかで、西行は塚本にとって親愛の情を覚えるほどの不足はない敵であると論じる。西行と塚本のスリリングな対決は紹介するには紙幅が足りないので、実際に読んでいただきたい。

花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり 藤原公経

夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 馬場あき子『雪鬼華麗』

 〈ふりゆく〉の〈ふり〉は古りの掛詞でもある。雪と山風で散りゆく桜花をみて自らの老いを嘆くという歌だと類歌を挙げて久保田は解説している。公経の歌を読んだとき、馬場の歌が浮かんできた。幽玄な空間で桜の落花と自身の齢が重なる。膨大な年月をかけて、歌人が桜に抒情を託してきたのである。西行・塚本の緊張感や、公経と馬場の桜の歌を思うと、古歌と現代短歌のつながりを実感する。久保田が論文を書くより歌を写すほうが楽しいと述べている。本書を読むと歌は美しい糸で縦横張り巡らされた織物のようなものであると感じた。

「かりん」(二〇二一・三)所収