川島結佳子歌集『アキレスならば死んでるところ』を読む

  第二歌集を出すことを本人から聞いたときに、題名を聞いた。そのときはまだ考え中だったようだ。記憶があやふやだが、ある晩、数人で柿生坂を歩いていたときだったと思う。なんだか思い返すと印象深い。タイトルはケンタウルスが入ると予想していたが違った。アキレスだった。


  検索ののちに現れるマンモスのユカはあられもない姿にて

  あと五分寝てたい気持ちを押し殺し起き上がりだす人間のユカ


 ユカと呼ばれるマンモスは二〇一〇年にシベリアの永久凍土から発見されたケマンモス。グーグルで調べると骨と僅かな毛皮の画像が表示され、悠久の時間を経たモノであることが改めて実感される。一首目では、主体である人間のユカは名前に親近感を覚え、検索する。その結果、左記の画像が表示され、〈あられもない〉と感じる。この、あられもないという点にもう一人(匹)のユカへの共感がある。二首目は五分寝たい人間のユカと三万九千年寝ていたマンモスのユカが対比されている。マンモスのユカはこの歌には描かれていないが、連作をとおして、〈ユカ〉というカタカナ二音の固有名詞に、マンモスと人間のユカ像がそれぞれ託されていく構造をしている。冒頭にいきなり高度な技巧の連作が登場する。


  髪にへばりついた花粉をしごきつつ「切れるだけ切ってください」という


 あられもないというのは歌集の主題の一つだろう。毎年更新していく花粉の量や、その鬱陶しさに髪を「切れるだけ切ってください」と美容院で言う。この身体に対するなげやりさは、黒髪や長髪のもつ女性性の否定、あるいは花粉に象徴される外界の不快さへの嫌悪感が読みとれる。いずれにせよ抑圧に対して、違和感を等身大に示唆している文学的な態度である。本当に切れるだけ切られたらあられもないのだが、それよりももっと作者は普遍的なことをいいたいように思える。


  オンライン会議のために上半身着替えてわたしケンタウルスのよう

  副反応の熱で目覚める真夜中が過ぎるのをリュージュの姿勢にて待つ


 こうした文学的な態度は、主題と適度な距離を生み、時事的な歌であっても、新聞の見出し的にならずユーモアと、気付きのある歌になる。一首目は本歌集の代表歌の一首であろう。オンライン会議にみられるちぐはぐさに、ケンタウルスという幻想的な生物を引き合いに出すところが、さらにちぐはぐで面白い。二首目はかりんの歌会で好意的な評が多かった歌と記憶している。リュージュという高速で氷上を滑る競技の比喩に緊張感があるが、読者はなぜあえてリュージュかという問いを読後感に持ち、なんとも表しがたい余韻がある。


  水の惑星に住んでいるのにひたひたも被るくらいも分からずにいる

  きりねぇ、きりがねぇなぁ降りしきるさくらの花を清掃員は


 あられもないというのは、主体、ユカだけではない。誰しもがあられもない部分がある。一首目は厨歌の一首。先行する厨歌は主体が華麗に料理する場面が描かれていたり、記念日になるサラダが登場したりするのだが、この歌には水の浸し具合を通して、水の惑星に住む違和感を述べる。卑近な場面だが、歌の対象は広い。そして、料理においてわりと初歩的な水の浸し具合がわからないというあられもなさがある。二首目は清掃員が桜の花びらを掃除しているところ。きりがないのは桜のもつ多くの主題や象徴である。この供給過多に清掃員は辟易としつつ、どこか楽しんでもいる。しかし、清掃員は桜のみせる幻想の外に存在し、桜を廃棄物として掃き捨てる役割がある。


  戦争画の湿度 枕が変わったら眠れなくなる君を思った

  登山だと言い張る君が登りゆくどうぶつ広場の小さい丘を

  山頂からの景色と言って君が撮る平行に建つビル群であり


 歌集に登場する君も捨てがたい存在感がある。戦争画は大政翼賛的な絵画のことだろう。戦争画のなかには局地の絵や、描き続けるために体制に迎合した作品もあったことだろう。一方で君は枕が変わると眠れない。局地に行けなければ、思想も変えられないのだ。君は戦争画が全く描けないひとである。二、三首目はセットになっている。登山だと言い張り丘を登り、ビルを撮る。このスケールの小ささが、君は案外いいやつなんじゃないかと思わせる。戦争画を描くことが出来ない頑固さと、スケールの小ささが同居する君への信頼感が読みとれる。


  咲きときにマッチで水素に火をつける実験の音がするかも桔梗


 短歌的な短歌が少ない歌集であるが、この歌は現在の川島の短歌的な短歌であると思った。“上手い”。