昔話から始めよう。二〇一六年だったと思うが、貝澤は歌林の会に入会して、初めて掲載された作品が若月集に入った。そのときは、貝澤はまだ学生だった。歌会後に中野の「赤ひょうたん」という居酒屋で二次会をしているときに、かりん誌を持ち寄って「すごい子が入ってきたね」と興味深く数人で貝澤の作品を読んだことを覚えている。そのときは、まだ貝澤は歌会には来ていなかった。貝澤が歌会に参加するようになり、徐々に若手が増えてきたので、若月会《みかづきかい》というかたちで勉強会や歌会をもった。かりん東京歌会は午後なので、午前中に中野の喫茶店「ルノアール」で開催することが多かったように思う。貝澤や川島結佳子らが活発に歌評をしていた姿を漠としながらも思い出す。のちに歌林の会に入会することになる郡司和斗もこの歌会に顔を出していた。いまや隔世の感があるが、思い返すと当時は、それぞれが自分の短歌を確立したいと熱をもち、ときにそれが衝突する時代であった。本歌集の帯文にある通り、貝澤は英文学・アイルランド文学を専攻していたので、文学批評含め、そうした背景を生かした評をしていたように思う。また、貝澤の教養目録と筆者の目録と被るところ多く、行動分析学、ブラック・ライヴズ・マターとエンパワーメントや、批評理論における原型批評などの話で盛り上がったように記憶している。その時期に印象的だったのは「丸地さん歌が暗いですね」と言われたことだ。文章だとわかりにくいのだが、批判ではない。お互いの作品の批評のなかでの発言である。本歌集を読むとその点はいまでも両極だと思う。
まっさらなノート ピリオド そこにいるすべての走り出さないメロス
二〇一七年のかりん全国大会の歌会で岩田正賞を受賞した一首。「かりん」(二〇一八・一)の若月集の欄頭の連作のなかにも収録されている。貝澤の初期の代表歌といってもいいだろう。まっさらなノートも、走り出さないメロスも起点であり、可能性と、開けた空間を感じさせる。純真性、起点性、また、〈われ〉に焦点を絞るのではなく、〈そこにいるすべての〉と限られた普遍性を持たせる点は貝澤作品の核の部分である。「丸地さん歌が暗いですね」の視点は、こうした文学性から来ていると思われ、貝澤の文学態度は一貫している。そうした点も頼もしく思えた。
海の向こうでいくつも国が倒されて誰かがそれを春と名づけた
誤差だった空の遠さを 花の名を持ってしまったその革命を
チュニジアのジャスミン革命を端に発し、二〇一〇年から二〇一二年にかけてのアラブの民主化運動であるアラブの春を詠んだ歌。民主化運動とはいえ革命であり血が流れる。一首目では〈国が倒されて〉とやや擬人化している。春と名づけるのは、そうした流血を含む運動に希望をみている。そして、二首目のジャスミン革命のように花の名を冠す。そう順風満帆にはいかず、軍事政権に戻ったり、無政府状態になり混乱を極めたりと失敗した地域も多い。イデオロギッシュ、そしてハードにアラブの春自体を詠うのではなく、貝澤はソフトに詠う。春と名づけ、花の名を冠する人の心に哀感をもつのである。
窓に春雪散りたればチェロキー語〈重大な危機〉ウビフ語〈消滅〉
この歌をかりん誌で読んだときに、世界を詠うときに言語に焦点を当てるのは新鮮だと思った。チェロキー語もウビフ語も聞いたことがない自分の世界の狭さを思い知り、そして言葉も滅びることがあることを知った。貝澤の歌はそうした知的空間的な広がりがあり、教わることが多い。貝澤の歌は、池澤夏樹っぽいところがあると、以前活動していた同人誌「gekoの会」で話したことがあった。この歌然り、知的空間やグローバリズムも貝澤の歌の論点となろう。
分断の歴史を知らず子どもらがキング牧師をラミレスと呼ぶ
セグリケイト つまり分断 また嫌な単語をひとつ教えてしまった
一首目、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者のキング牧師であるが、ブラック・ライヴズ・マターはいまだアメリカでは叫ばれ続けている、大坂なおみが犠牲者の名が書かれたマスクをしていたことが記憶に新しい。教え子がキング牧師を、黒人であるという一点において野球選手であるラミレスと呼ぶ。二首目ではそんな無知であり無邪気である子に、分断という知と、人の持つ邪気を教えることになる。それを知ることが世界や歴史、人類を知ることであるが、〈また嫌な単語をひとつ教えてしまった〉と思うところに貝澤らしさがある。
マツコ・デラックスに似たる大仏現れて角を曲がればまた現れる
スリランカに行ったときの歌。マツコ・デラックスのような大仏といわれると、何となく目じりの濃さやキラキラとした感じを彷彿とさせる。余談だが東南アジア圏の上座部仏教では仏像に電飾を施すとテレビ番組で見たことがある。キング牧師をラミレスと呼ぶこととは距離があるが、異文化のものを卑近なものに見立てる点は先の歌と共通している。海外の事物が主題の歌が多い歌集だが、異なる文化圏のものを理解し、歌にするひとつの方法である。
Make Orwell Fiction Again! ひとびとに戦うための文法を 詩を
元はロナルド・レーガンが唱えていたらしいが、ドナルド・トランプが大統領選のスローガンとしていた「Make America Great Again」のパロディの上句。貝澤はそのスローガンにジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984』をぶつけた。小説では全体主義的国家で、ニュースピークという、思考には不向きな新しい言語を民衆に強いて衆愚化を図り成功する。ゆえに下句では思考するための文法と、個人の自由を叫ぶための詩が戦うために必要というのである。ドナルド・トランプを『1984』でパロディした貝澤自身が、下句のような戦うための文法、詩を実践しているともいえる。
僕の脚に「駿」という字は書かれない空爆に逃げなくてもいい 今は
ロシアによるウクライナ侵攻に関する歌も多く詠まれていた。歌集を読むと貝澤は大学でロシア語を学び、その講師がウクライナ人であったことがわかる。そうした文脈もあり、切実感があっただろう。引用歌は、連作中に〈適職診断に〈義肢装具士〉の道がひかる素直に答えてしまった僕の〉という歌があり、僕の脚とは、義足ではない脚というニュアンスがある。しかし、結句の〈今は〉という限定により、その今でなければ、義足になりえる、空爆に逃げなければならないという暗示も生まれる。震災詠のときは当事者性という論点があったが、ロシアによるウクライナ侵攻や、ガザ危機等の際は当事者性という問題提起はなかった。筆者としては短歌においては当事者非当事者ということより、歌に説得力があるか、抒情がステレオタイプではないか、全体として浅薄でないかといった良し悪しを論じるべきと思っており、当事者性という議論がなかった、あるいは下火だったことは結構なことだと思った。貝澤の歌は義肢装具士という仮定ながら人生と、自らの脚という肉体に結び付けつつ、〈今は〉という示唆をもって、ロシアによるウクライナ侵攻を自らと接続させている。一首のなかで遠くの戦地に何重もアプローチをしているため、歌に必然性や説得力が生まれる。
貝澤と並走しながら時間をかけて作品を読み、作品以外も言葉を交わしてきた筆者は、貝澤という歌人自体に寄りかかることを避けられない。一方で、それによってテキスト以上に読める部分もあり、作品の鑑賞の裾野が広がることもあろう。そうした期待もあって、あえて自制せずに本ブログを書いた。
さて生活は断えず生活する自己を変化させつゝ時間的に進行してゆくので、その進行の過程がそのまゝ歴史なのである。 津田左右吉「歴史とは何か」(『津田左右吉全集第二〇巻歴史学と歴史教育』一九六五・五/岩波書店)
冒頭の昔話ついでに、もう一言申し添えたい。貝澤、川島、筆者は二〇一四年から二〇一六年にかけて歌林の会に入会。十年ほど経て、同時期に歌林の会の編集委員となり運営の実務の一端を担うようになった。そして、本歌集をして、それぞれ歌集も一冊二冊持つに至った。当時の銘々はここまで短歌を続けると想像しただろうか。短歌史というと烏滸がましいのであるが、津田の「歴史とは何か」の生活の部分に短歌を代入すると、ノスタルジックな昔話も短歌史といってよさそうだ。