本歌集は、劇中劇的ならぬ歌集中歌集である雪屋敷千紘歌集『私の知る海賊たち』の抄録が多くの頁を占めていることが印象的だ。他の歌は作中主体の人生に沿った構成となっているが、物語性の強さゆえに、田中は従来の歌集にある作中主体ニアリーイコール作者ではなく、作中主体ノットイコール作者という立場をとっているように印象を受ける。また、二〇二〇年に角川短歌賞を受賞した連作「光射す海」では戦場カメラマンのナラティブの連作ということで、一人称視点が作中主体から戦場カメラマンに移る。このような構造から、短歌において私性の極北ともいえる歌集といえよう。その点に着目して帯文を読むと、池田はるみは「モノガタリのような」、松平盟子は「〈わたし〉は偏在する。それゆえ作者の歌をこの世にあらしめる」、天野慶は「魅力あふれるダンジョン」のようなと評している。どれも首肯しつつ、〈わたし〉は偏在しているようで、歌集を読むと偏在というよりは構造的にはインドラの網のように、個々の〈わたし〉が交互作用をもちつつも、全体を成し、各部分も全体を内包している。このインドラの網が田中の自意識なのだろう。歌集を読んでいないとわかりにくい説明なので、是非とも一読することを勧めたい。
大いなる肋骨に会う夏休みいま少年は白亜紀をゆく
海賊の夢を見ている明け方にタオルケットはまるく膨らむ
「雪屋敷千紘歌集『私の知る海賊たち』夏編より「大いなる肋骨」」より引用した。一首目は海賊という海のモチーフから、肋骨は鯨の祖先のような古代の海洋生物だと推察できる。少年の抱く海、古代のロマン性が前面に出ている。二首目は海賊を夢で回収している。タオルケットは海原のようでもあり、また、ライナスの毛布のような幼さの象徴でもようでもある。
亡き伯母の懐中時計をポケットに天国と同じ時を刻めり
ナチス式敬礼のまま幼児らは横断歩道を集団でゆく
猛牛とかつて呼ばれし人にまだ残る獣の温度に触れる
目の奥によく波の立つ湖が お前はこういうとき揺れるのか
一首目は「『私の知る海賊たち』秋編より「青空の騎士」」より引用した。「大いなる肋骨」よりも結句の文語や、祖母という家族詠から落ち着いた印象を受ける。『私の知る海賊たち』は編年体の歌集なのかもしれない。二首目以降は「『私の知る海賊たち』冬編より「冬晴れの産科医院」」より引用した。二首目のナチス式敬礼という全体主義と、幼児の集団行動を重ねる社会性や、三、四首目の他者の内面に深く目を向ける歌も、「大いなる肋骨」に比べ完成度を増している。田中は物語性以上に、歌の巧拙で緩急をつけて、雪屋敷千紘のリアリティを増幅させている。神は細部に宿るというが、文体や歌の深度といった完成度に変化があると、雪屋敷は実際に存在し、『私の知る海賊たち』も劇中劇ではなく、実在する歌集なのではないかと錯覚または混乱してくる。
友という時の船乗りうつくしく夏の波止場を離岸してゆく
妄執を実らぬ愛と言い換えて夜の近づくチャイナタウンへ
扉文によると、雪屋敷は一九八九年の冬に失踪し、失踪から七年経って失踪宣言により死亡とみなされたという。理由はわからないが、「『私の知る海賊たち』からの抜粋 後編」から不穏になる。一、二首目ともに同じ連作の歌であり、友といえるときの他者は美しかったが、恋仲になったらそうともいえないということなのだろう。また、妄執、実らぬ愛と二首目にあり、複雑な関係なのだろう。これらの歌が直接的な原因ではないにせよ、暗い影を落としている。夜のチャイナタウンというのも、雪屋敷の住む温泉街から離れており、やや自暴自棄になっている様である。何か不如意なことが重なって失踪してしまったのだろうか、事件性はないだろうか……と、すっかりのめり込んでしまった。このように人間の機微の描写は精巧を極めるが、雪屋敷を創造し劇中劇を演じるのは、
“短歌的”ではない。かといって、小説ほど客観的ではなく、一首一首の主体の視点はあくまで“短歌的”な主観性がある。“短歌的”なるものが、コギト・エルゴ・スムであれば、田中の歌は西田幾多郎のいう主客合一であり、自身と対象、つまり田中と雪屋敷が合一しているといえる。こうした点からも本歌集は私性の極北に位置するといえ、また、他ジャンルの文芸を含めてもなお注目されるべき文学性があると思う
邦楽に取り組む学生の連作「夏の奏者たち」、大学付属博物館に異動し帰国したときの連作「銀河世紀」などは歌集のなかで比較的、生活実感が濃い一連である。どの歌も博物的視点があり面白く、田中の文学性のひとつだと思った。しかし、生活実感のある歌は、主題性が濃い「光射す海」や、雪屋敷の一連と比べると落ち着いた印象を受ける。それにより歌集全体のバランスが取れているのだが、映画が終わったあとや、リアルな夢から覚めたような感覚に陥る。
インドラの網の結び目には美しい宝珠があり、互いに宝珠を映し出しているという。宝珠が互いに反射する光景は美しいのだが、インドラの網が解れて、及ばない箇所があるのではないかと思える現実もある。生活実感のある歌からはそうした苦しさも感じ、そこに田中の短歌をとおした世界の実感があるのかもしれない。この部分はもう少し文字を尽くして考えたいのだが、次の機会にとっておきたい。