本記事はクローズドの読書会のメモランダムであり、少しカジュアルな形式で歌集を読んだ。
巨きなる白猫よぎる わし昔、良寛さんに撫でてもろうた P32
猫又のような白猫。良寛は歌では〈この里に手鞠つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし〉を思い出すが、良寛は子どもだけではなく猫も好きそうだ。良寛の時代から時間が経っているので、少し迎えると猫は子どもの来世という読みもできそうだ。
呼び戻すためにマッチに火を点す雪ふる街の少女のように P47
母の歌。仏壇の蝋燭に着火する際にマッチを点けるため、そうした場面か。民話や落語で反魂香というものを聞いたことがあるが、明示されていない。「マッチ売りの少女」という童話からの着想でもあり、母の前では主体のなかの少女性が顕在化するのかもしれない。
うろこ雲 死んだらどこに行くのかと無為なる問いを投げたし今は P47
続いて母の歌。初句切れであり、下句もわかりやすく直接的に気持ちを詠んでいる。
朝顔の迷走 蔓のもつれあいもつれたままに支柱を離る P52
朝顔の想像以上に蔓を伸ばすことを、面白く思っている。朝顔の容赦ない蔓性を面白くなっているため、人間関係の比喩などと拡大解釈して読まないほうがいいと思われる。
シベリアの真中あたりを拭いやる埃の積もる地球儀の〈北〉 P81
ロシアによるウクライナ侵攻が主題の歌。聞きなれない地名を多く聞くことになった出来事でもある。また、ロシア艦隊や黒海などの地理的な要因も戦略に盛り込まれており、報道を視覚的に理解するため、地球儀をみたのだろう。当事者国であるウクライナもロシアも北半球であり、間接的に関与している国々もどれも北半球にある。地球儀の〈南〉の国々は国際司法裁判所に提訴するなどしており、却って埃など積もらずに、クリアに場所を占めているということであろう。
戦争を見ているカメラで戦争を観ている春のけぶりのにおい P82
下句は戦争を傍観していることに対しての不全感を詠っている。上句のカメラは戦争を見ているという擬人法が新鮮に感じた。カメラマンや記者ではなく、イデオロギーのない無生物であるカメラだけが戦争を見ているということだろうか。
極寒の水をひたすら立ち泳ぐ金魚それでも死んだらだめだ P97
瀕死の金魚水槽の底に横たわる小さな平たい石を枕に P97
金魚の一連。金魚の終末期を描写しているが、人間を看取るように眼差しをむけるところが面白い。超高齢社会、多死社会とよばれる世相が反映されているように感じた。
日暮れにてわたしはひとまず終了で いわし雲ひつじ雲ぜんぶ燃やして P104
上句の終了でという言い切りの言い回しが現代的である。こういった投げ出したい気持ちはまれにあり共感できる。
やわらかくバターはナイフに従いぬすべてがぬるく熱もつ夕べ P106
〈従いぬ〉というところに、ナイフがバターにすっとはいっていく様が表現されている。
葉の花の土手を歩いて帰り来よ菜の花ほどの光をおびて P148
娘の歌。下句のような健全さや肯定は短歌には珍しく気持ちいい。光景も浮かぶ。
牛乳は明るいほうを向いて飲むつめたい硝子の花曇る朝 P153
この歌も現状肯定的な歌であるが、上句は決心のようである。寒い朝でも明るいほうを向くという能動的なもの。
もう一度世界のはじまる薄明にとおく邯鄲の鳴く声をきく P157
限定戦争が常態化しエスカレーションの危険性もある世界情勢を、概括的に読む歌もあったが、〈もう一度世界のはじまる〉という再起を詠んでいる。「現代思想」(青土社)でも終末論の特集が二〇二五年十一月号に組まれているが、あづまはポスト終末を夢想する。そこには邯鄲の虫の音が聞こえる。邯鄲は鳴く虫でもあり、邯鄲の夢という含意もある。
卑近な題材、家族といったメゾな題材、社会詠の俯瞰した題材、バランスよく構成されている歌集である。また、卑近なようで社会性を帯びていたり、その逆であったりと、いわば状況の中の人というべき意識がある。