斎藤美衣歌集『世界を信じる』を読む

  斎藤美衣歌集『世界を信じる』を読んで、人を想うということは静かな営みだと思った。心づかい、他者への配慮、世話をすることはケアといい(『デジタル大辞泉』)、キャロル・ギリガンは思想的に整理し、昨今ケア文学の文芸批評に関する書籍も多く目にする。そのなかでも本歌集はケアの一言では表現できない味わいがある。短歌は、いや本来人の想いは個別的なものであるからだろう。


  まはだかのこころで犬は駆けてくる名前を呼べばただそれだけで


 犬の無邪気さをまはだかのこころと視覚的に表現する。無邪気とは人からみた印象で、相対的なものである。犬のまはだかのこころというのは、無邪気よりもさらに直接的な把握である。直接的な把握は共感といってもいいだろう。犬のまはだかのこころと、かな字にひらいているところに、純真さや眩しさがあるが、そこに共感するところに主体も同じく純真さを持ち合わせている。


  シュウマイにぐいぐい箸を伸ばす子の喋りすぎるは要注意なり


 共感や純真さを持ち合わせていることは、同時に社会の外圧と葛藤することにもなる。子と食事を摂る一場面だが、子の多弁さに心理社会的な行き詰まりがあることを察知する。母としての勘でもあるし、断定する〈なり〉に込められているのは、自らもそうであることからの確信ではないだろうか。喋りすぎるだけではない、シュウマイにぐいぐい箸を伸ばすのだから、やや過食なのかもしれない。


  純白のマスクの陰に上下するのどぼとけ見ゆ二番窓口


 コロナ禍でマスク着用が一般化した。顔半分が覆われる状況で、相手の表情は把握しにくくなった。主体は二番窓口に話す係員ののどぼとけに注目する。口元は見えないが、のどぼとけはしきりに動く。相手の言っていることや、表情ではなくのどぼとけをみて、その人の人間としての生命を見ているような歌である。エンパシーは精神的なものだが、斎藤の歌ではもっと中心部分にある肉体と魂が混在する部分への心寄せがある。


  つなぐことできぬ器官を持ちよつて雨続く日を、あなたください


 器官とは身体の器官のことだろう。感覚器官でも、手や足なども器官といえば器官だ。上句のようにあえてぼかした器官が、ぴったりとあなたと触れあえない様子を醸し出している。それを持ちよつて、雨続く日と、雨天に狭いところに引きこもる日をほしいという。不全感があり、器官という湿り気のあるモチーフに雨の日は合う。晴れのようなエネルギッシュなものではなく、やや陰るくらいが主体もあなたも過ごしやすい。


  通気性あるかないかの問ひ合はせ 季節の境、三月二十日


 連作を読むと、抱っこ紐の製造や販売を手掛ける会社を起業していることがわかる。その仕事詠の一首だが、通気性の問い合わせから、抱っこ紐を使う不特定多数の親子、三月二十日という暖かくなりはじめた季節を思う。抱っこ紐自体がケアの道具であるため、通気性以外にも使用感や安全性など多くの要素で考慮する必要がある。つまりケアの道具の製造にはケアが必要だということである。


  キーウには何組残つてゐるのだらう抱つ子紐使ふ父と子、母と子


 抱っこ紐を起点にウクライナ情勢も視野にいれた歌。鋭く何かをいう歌ではない。抱っこ紐に象徴される親子に心寄せしている。父と子、母と子というのは、母子家庭、父子家庭というポリコレではなく、母が死に父が死にうる状況を暗示しているのではないか。そう考えると下句に深刻な重さがでる。


  ふと房、またひと房、抜けてゆく わたしの髪と戻らぬ時間

  にんげんほんたうはよいものでせう塩壺しろき塩を足したり


 歌集の題の『世界を信じる』その世界とは何だったのだろう。一首目のように闘病により、髪の束だけではなく、病気がなければあるはずだった時間や経験を奪った世界である。二首目では上句で人間を本当は良いものであると信じようとしている。かな字にひらいているので、まだ人間を信じようとしている段階であろう。塩壺というかつて生命に直結するものを登場させた点にも、自らの生を回復させるという暗喩がある。歌集を読み終わり、題名に書かれている『世界を信じる』をみて、斎藤は歌集に収録されている歌を詠うことで世界を信じたのだと思った。そして『世界を信じる』という決意の裏腹には、(それでも)世界を信じるという括弧内のそれでもが潜んでいるのではないか。

 最後に本歌集の主題が集約された一首のように感じた好きな一首を挙げたい。筆者も、短歌にせよ何にせよ、この世を雪のようにすこし照らせたらいい。また、その灯りを見つけられるようにありたい。


  なんどでも雪は降りきて地に落ちるまへにこの世をすこし照らせり