対象を見るというより、対象という本を読むような視線がある歌集。例えば冒頭に次のような歌がある。
待つ人の林のような改札にひとりひとりが棲まわせる鳥
景色自体は卑近で、毎日のように目にする人もいるだろう。しかし、その景色を林に、そして人々に鳥が棲むという物語を付与する。改札は時間によっては薄暗く、また明るい表情をした人がいるとも限らないなかで、物語性を帯びることにより、絵本の一頁のような彩りが生まれる。天野の文学性が物語を付与したことに間違いはないのだが、一方で現実の景色からその物語を抽出するベクトルもあり一首と成したと思う。
谷口生花店の菊は売り切れており ひねもす煙の昇る日曜
同じ連作からもう一首引用した。谷口生花店といった固有名詞であるディテールをいれることでリアリティが増す。御実家の様子が詠われる連作のなかで個人経営の生花店はノスタルジックであるし、仏花である菊が売り切れるということは法事の多い季節を思わせる。改札に待つ人だかりを林にする比喩的な手法と、ディテールで説得力を持たせる手法の両方に物語性という要素がある。
地下鉄という洞窟の暗闇に壁画のごとく浮かぶバイソン
壁画のバイソンというとスペインの世界遺産アルタミラ洞窟のようなイメージを抱く。そうした古代の事物は、通常は図鑑や書籍から接収されるもので、引用歌の見立てにも、対象という本を読むような視線があると感じた。
司馬遼の全集のその深緑 腕の長さの分だけ運ぶ
美人画の好みの美人言い合って小波ほどのどよめき起こる
歌集を通読すると作中主体(天野自身も)、司書をしていることがわかる。労働の一場面でも文学的な香りがする。一首目は司馬遼太郎という選択がよく、歴史小説家の全集という歴史の長さと、人ひとり分の腕の長さの対比が効いている。腕の長さ分の歴史小説が秘めた時間の量も相当なものだが、それをわずかな時間で運ぶという。膨大な歴史と、身体感覚や動作が一首に同居している点が面白い。二首目は美人画というところが天野ならではのところ。好みの美人を言い合うだけでは俗なのだが、美人画というところで品がよく、しかし下句でほどよいどよめきが起こる。日常のときに猥雑な場面も、司書というバックボーンや、文学的素養または視線で浄化され一首になる。無意識ながらそうした作歌の過程はどの歌にも大なり小なり見受けられ、天野の文学性といってよいように思える。
作りたての紙飛行機の心地してスーツの袖が春風を切る
ながいこと歩み歩みてうつ伏せに眠れば天と向き合うあうら
本から目をあげるように、視線をあげる歌もある。一首目ではスーツを着た主体が、歩きながら風を切っているのだが、作りたての紙飛行機という比喩に、新しいスーツの張りのある質感や、裏地をすべらかに腕が通り抜けるような、組み立て可能な構造性のある物質感がある。二首目は一日の疲れで、自らを庇うようにうつ伏せに寝るなか、足裏が天を向くという発見があり、普段気にとめない足裏への注目や、身体のどこかしらが天を向くという肯定の意味合いもある。ながいこと歩み、の上句はどこか人生めいてもいる。ささやかな境涯詠と読んでもよさそうだ。
本ブログでは主に視点に注目して歌集を読んだ。どの歌も好きなものが多いなか、家族詠や郷里の北海道の歌も無視できない味わいがあり、最後に引用したい。
黒狐ならばシトゥンペカムイとぞ わざわい告げる神かもしれず
天井も桐の箪笥も父の背も家とはだんだん低くなるもの